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2006年6月 3日 (土)

死に至る病。

伊丹十三さんのエッセイ「女たちよ!」を読みました。
伊丹十三さんは京都市出身で、映画監督の伊丹万作さんを父に持ちます。伊丹十三さんが高校生のころ京都から愛媛県松山市に移り住み、松山市内の公立高校を卒業後、上京します。
伊丹さんはもともと役者さんでしたが、1984年公開された「お葬式」で映画監督デビューを果たし、それ以降は映画監督が本業になります。
伊丹さんには翻訳者としての一面もあり、ウィリアム・サローヤン原作の「パパ・ユーア・クレイジー」などを訳しています。
さて、今回読了した「女たちよ!」ですが、その中に「死に至る病」という小見出しのついた記事があります。そこには「・・・モテるということが、今や男女関係の至上の物差しになってしまった。」とあります。著者の伊丹さんが一体何を憂いているのかというと、つまり、「一生、人を愛することのできない人間ができあがってしまう。」と言うのです。
モテる、モテないという物の考え方は、人間を受身にさせてしまう、「幸せというものが、自分で掴まえるものではなくて、人が与えてくれるものである」という思考につながると言うのです。
とにかく異性の目を気にしたファッションにヘアスタイル、常に流行を追わずにはいられない自己決定権のなさ。
自分から誰かを愛する、誰かを幸せにしようとする努力が感じられないというものだと思います。
そう言われれば、私にも一つ二つは身に覚えがあります。
結婚生活が上手くいかずに終焉を迎えた時、いつだって自分が被害者で、相手を憎み、罵ったのです。そんな被害者意識に駆られた悲劇のヒロインに、最初のうちは周囲も同情の声を寄せてくれます。けれど最終的にその深淵から脱却して新たな一歩を踏み出さねばならないのは、他の誰でもない「自分」なのです。
伊丹さんはこの「死に至る病」で、特に世の男性に向けて発信した内容だったのかもしれませんが、私はあえて、女性にもあてはまるのではないかと思い、ここに紹介します。

「・・・若者よ。間違ってもプレイ・ボーイなんぞに憧れるな。フロムという人がいっている。あれは、男として自信のないやつが、女を数でこなすことによって、自分が男であるということを自分に証明しようとしているにすぎぬのだ、と。」

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コメント

こんにちは
結婚生活で大変な思いをされたようで、その辛さに読んだ者も痛み入りますが・・・。
人間関係を選択するときに(例えお見合いでも)、その最終決定権は自分自身であるわけで、その結果が上手くいこうと失敗であろうと、全ての責任は自分です。
選択をするという行為の中に、一切の責任が付加されるものだと思います。
相手に協力姿勢が無い世界を作ったのも、自分の責任。その相手を選んだ不徳は自分の責任ですから・・・。
なにごとも(選ばれても、選んでも)「選択をした」という行為があるわけで、相手を避難する前に自分の選択を反省しなければなりません。
それ以降の問題は、法律的な判断でしかないようにも思えます。 自立と自己責任にちょっとこだわりを持っている、雲出川荒大。変なコメントごめんなさい。

投稿: 雲出川荒大 | 2006年6月 4日 (日) 07:23

ごめんなさい。非難と避難の転換を間違えました。
「相手を避難・・・→非難」です。

投稿: 雲出川荒大 | 2006年6月 4日 (日) 09:25

こんにちは!(^^)!
コメントどうもありがとうございます。
伊丹十三さんの「女たちよ!」のエッセイは、とても面白かったですよ☆
今回の「死に至る病」は、そのほんの一部なのですが、とても考えさせられました(^_^.)
世間で求められている「モテる」人物を目指すよりも、たった一人の誰かに必要とされる「自分」を確立することが重要なのだと分かりました。
ややもすればいつだって人間は愛される願望の方が強くて、誰かを真剣に愛することを怠りがちなのですよね・・・(^^ゞ
雲出川さんのおっしゃる通り、全ては自分の責任なので誰を責めることも出来ないのですよね★

投稿: さんとう花 | 2006年6月 4日 (日) 15:37

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