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2006年9月18日 (月)

泣いて馬謖を斬る。

学生時代、中国古典に詳しい教授がいました。
その先生は法家の韓非子に心酔し、自分もかくありたいと大学の法学部に進んだのだそうです。
私の専攻は英文学でしたが、選択科目として週に2回だけの法学の講義が待ち遠しくて仕方がありませんでした。
社会に法のある理由、法のない社会はどうなってしまうのか、果ては人間の本質とは実のところどんなものなのか。
先生の講義は、私の興味を惹きつけて止みませんでした。
講義が終ると早速先生のところへ行き、他の女子学生に交じって楽しく歓談したのです。
その際、今でも印象に残っている話題なのですが、「三国志」の<泣いて馬謖を斬る>の件についてです。これは、三国志を通読したことのある人ではないと分からない場面かもしれません。

蜀の軍師諸葛孔明は北伐に挑んでいたが、孔明の助言を軽んじた部下達の失策により情勢は思わしくなかった。
漢中の急所である街亭を敵に奪われたら蜀軍は総崩れになってしまうことは明らかだった。
孔明は何としても街亭を死守する必要があった。
「それがしが参りましょう。」
と、申し出たのは名将馬謖だった。
この時、孔明の配下には豪傑と謳われた関羽も張飛もすでにいない。
若き馬謖に不安は覚えるものの、採用するしかなかったのだ。
「仲達は尋常の男ではない。おぬしで守れるか?」
「何を恐れましょう。もし失敗があれば一家ことごとく打ち首でも構いません。」
孔明はその言葉に胸騒ぎを覚えたものの、馬謖のたっての願いを聞き入れてしまう。
「ならば、行け。」
結局、孔明は二万五千の精兵と、万事に慎重な王平を副将として馬謖に与え、街亭を当たらせることにした。
馬謖は街亭に到着するやいなやその地勢を眺めてからからと笑った。
「わしは幼少のころから兵書を熟読し、兵法はいささか心得ている。丞相(孔明)がおおせの道の口は陣を張る場所ではない。あの山の上に陣を敷こう。」
策士、策に溺れるとは言ったものだ。馬謖は副将の王平が止めるのも聞かず、また孔明から授けられた策をも無視し、独断に任せて山上に陣を取ってしまったのだ。
敵の仲達はその様子を見て手を打って喜び、
「天が我が成功を助けたもうたのだ!」
と言うや、自ら大軍を率いて進撃して来た。
馬謖のいる山は敵軍に包囲され、水、食糧を絶たれ、陣中は混乱を極めた。馬謖の大敗であった。
死に物狂いで馬謖は山を駆け下り、九死に一生を得たものの、漢中に戻って自ら縄にかかって孔明の前に跪いた。
「軍律通り、処刑に致す。」
孔明は首を打てと厳しく言い渡した。その孔明の横顔には、一筋の涙が垂れていた。

学生時代、この場面についてはさすがの孔明びいきの私でさえ納得がいきませんでした。名将馬謖を一度の失敗にむざむざ死刑にしたのは余りに冷酷な判断ではなかったかと。けれど法学の先生は、
「孔明の判断で間違いないよ。」
と言いました。
法をおろそかにすることの危険性、私情を差し挟むことの愚かさを説明してもらいました。法によって社会の秩序が保たれていることを、改めて実感した私なのでした。

勝ちを天下に制する者は法を用うること明らかなるに依る
(孫子より)

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コメント

みなそうとうな人物。
斬った孔明しかり、斬られた馬謖しかり。
でも最も人物といえば、臨終のさい「馬謖の論議は行動が伴っていない、重任につけぬよう」と孔明に言いつけた劉備では。
冷静かつ客観的に馬謖の本質を見抜いていたということです。
まさに後世まで名を残した劉備たる所以を見る気がします。

さんとう花さんはすばらしい先生に恵まれましたね。
それにしても奥が深いかな、三国志。

投稿: ぱち | 2006年9月19日 (火) 19:13

ぱちにくさん、こんばんは(^o^)
いつもコメントどうもありがとうございます。
ぱちにくさんのおっしゃる通りで、玄徳は臨終の際に馬謖にはくれぐれも気をつけるように忠告したのでしたね。
そのため、孔明が馬謖を斬った際に流した涙は馬謖を失った悲しみではなく、先帝劉備玄徳の忠告を軽んじてしまった我が身の浅はかさを嘆いたものだとも解釈されていますね。
この件は作家、史学家の様々な解釈がされていてとても面白いのです☆
本当に奥の深い歴史文学ですよね!!

投稿: さんとう花 | 2006年9月19日 (火) 20:08

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