窓辺の灯。
「音楽の都、浜松」
ヤマハ(楽器)の本社がある影響なのか何なのか、JR浜松駅前はいつもストリートミュージシャンとそれを囲む聴衆とで賑わっています。
私はその人ごみを縫って、立ち止まることなく通り過ぎて行くのです。
スタバに入って、いつも注文するのはバナナケーキとホットコーヒーです。座る席もたいてい決まっていて、窓際のどこか空いている席。
スタバが居心地の良い理由は、年齢や客層が限られていないことかもしれません。五十代ぐらいのビジネスマンも新聞を広げてくつろいでいるし、若い男女がデートを楽しむことも出来るし、私のような三十代の女性も一人で気兼ねなくコーヒーとケーキをいただくことが出来るのです。
ガラス窓の向こうは、絶え間なく行き交う人々、そして歩道には街路樹の落葉がもう散らばっていました。
私の隣りのテーブルには四十代と思われる男女のツーショットが、何やら親密に話し込んでいました。おそらく夫婦ではないでしょう。
二人には世界があって、隣りで本を読む私のことなど眼中にはなかったことでしょう。それこそが恋する二人に与えられた特権なのですから、何ら問題はありません。
ただ、私の中で彼らをうらやむ気持ちは不思議と起こりませんでした。
それは虚勢でも意地でもなく、刺激的で甘美な気分さえ少しも感じられませんでした。
印象に残ったのは、男性が身につけていたゴールドのブレスレットと女性の脇にあったヴィトンのバッグだけ。
ただそれだけでした。
私はナイフを使わず、フォークだけでバナナケーキを突きながら、「窓辺の灯」を読みました。
これは、カポーティ短篇集に収められた一作です。
トルーマン・カポーティはアメリカの小説家で、ルイジアナ州ニューオリンズ出身です。カポーティの両親は幼少のころ離婚していて、後年、彼の母親は自殺しています。
親戚中をたらい回しにされたカポーティに学歴はなく、ただ夢中になって読み耽った読書歴があるのみです。
作家になってからは「麻薬常用者」であるとか「アル中」だなどのゴシップが彼に付きまといます。
また、作品からカポーティがホモ・セクシュアルであったことが察せられるため、高い評価を受ける一方で、生理的に嫌悪されてしまう作家でもあったようです。
代表作に「ティファニーで朝食を」「冷血」等があります。
作中の「わたし」は道に迷って、猫好きの一人暮らしの老婆に一夜の宿を借りるのです。
「わたし」は老婆の親切心にこう感じています。
「・・・家の戸を真夜中に見ず知らずの男が叩く、老婆はドアをあけるだけでなく暖かく中へ招じ入れ、一夜の宿を貸す。もしわれわれの立場が逆だったなら、はたしてわたしにそれだけの勇気があったかどうか疑わしい・・・」
しかしその老婆には秘密がありました。
孤独と静寂さを紛らわしてくれる猫たち(過去に亡くなった)を冷蔵庫いっぱいに冷凍保存していたのです。
私は、限りない優しさと暖かさは、狂気と表裏一体なのではなかろうかと思いました。
このカポーティらしい皮肉と冷静さは、たった数ページの短篇作品に濃縮され、良い味の風味を醸し出しているのです。
風の吹く冷たい夜、暗い夜道を彷徨っている時、「窓辺の灯」は私を照らしてはくれないのでしょうか?
たとえそれが狂気の沙汰であってもかまいません。
必要以上の優しさと暖かさに包まれてみたいものです・・・。
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