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2006年11月24日 (金)

フィッツジェラルド。

昨日、久しぶりに街へと買い物に出かけた私は、まずはユニクロへ向かいました。
浜松ザザシティ内、西館1Fにあるユニクロは、祝日ということもあって幅広い客層でごった返していました。
さり気なく若い女性たちのファッションを目で追うと、みんな小奇麗に着飾って、それぞれが時代の波に乗り遅れまいと、流行を華やかに泳いでいるのでした。
一様に足並みを揃えたそのセンスに、情報の氾濫と、間違った自己主張と、内面の弱さを見たような気がしました。
彼女たちは文字通り、スレンダーで美しい。
若さと活気に溢れ、そこには勢いさえ感じられます。
私はいつの間にか冷然とした態度で彼女たちを見つめていました。
「あの衣類、装飾品、すべてを剥ぎ取ったとき、彼女たちに一体何が残るのだろう?」
私は非情にも反逆の空気を味わっていました。
その一方で、心臓がギュッと締め付けられるのを感じながら、内面的な緊張のために自分自身の中に没入するのでした。

ユニクロで衣類と下着を購入した後は、まるで逃げるようにしてスタバに直行。
私はストロベリーシフォンケーキとコーヒーを注文しました。(大好きなバナナケーキは姿を消していました。残念。)
窓辺の定位置に席を取ると、さっそくバッグの中を探って本を取り出しました。
「グレート・ギャツビー」を再読。
周囲の喧騒などものともせず、店内に流れるジャズさえ私にはBGMの役割を果たすことはありませんでした。
この甘美と切なさに泣き濡れてしまう格調高い文学作品をどうやって紹介したら良いのだろう?
私にその術は見つかりません・・・。

「ギャツビー」の巻末に、訳者村上春樹のあとがきが掲載されているのですが、これほど見事な解説をこれまでに読んだことがありません。
私は読んではコーヒーを口に含み、しばらくしてケーキをつつき、それからまたあとがきに目を落として、その後ためいきが漏れました。
「グレート・ギャツビー」を書き上げたフィッツジェラルドを肌で感じてしまうのです。
もうとっくの昔にこの世の人ではない彼の息吹を、リアルタイムで感じられるのです。
フィッツジェラルドとゼルダとの出会い。
自由奔放で浪費家で、生涯に渡って悩み苦しめられる彼女を、どうして愛してしまったのか。
村上は次のように述べています。

「スコットは本質的にゼルダという発熱を必要とし、ゼルダは本質的にスコットという発熱を必要としていたのだ。彼らはその発熱を通して、インスピレーションを鮮やかに交換し合い、高めていくことができた。」

この二人の破滅的な関係は、時として芸術さえ生み出してしまうのです。
私の倫理観が、危険をはらんだその関係を否定しながらも、でもやっぱり心のどこかでフィッツジェラルド、あるいはゼルダのような、求めて止まない関係になりたがっているのかもしれません。

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2006年11月23日 (木)

グレート・ギャツビー。

私は時々自分のことがたまらなくキライになってしまいます。
それはとても曖昧で、漠然としていて、自分を詳細に分析することは出来ませんが、とても不安で怖くなってしまうのです。
「私の存在理由ってなんだろう?」
そんなこと考える必要はないのだと、頭では分かっているのに、心が嘆くのです。
「お父さん、お母さん、私も彼岸の向こう側へいきたいよ・・・。」
私はいつもこんな意気地なしで生きてきてしまいました。
ならばもっと自分を省みて、努力を、と人は助言してくれるかもしれません。
でもこれだけ多方面にアンテナを張り巡らして、自分らしさを否定して、ストイックに生活して来て、その上一体何をどうしたら良いのでしょうか?
私は、自分を見ず知らずの人間たちの中へと埋没させてしまいたい。
私が奇声をあげて狂ったように笑い転げても誰も振り向かない、都会の雑踏の中に埋もれてしまいたい。

私は「グレート・ギャツビー」を読みました。
待ちかねた村上春樹の翻訳したものが、やっと、やっと今月発売されたのです。
原作者であるF・スコット・フィッツジェラルドの原文をペーパーバックで読んではみたものの、哀しい哉、語学力が乏しいこともあって、今一つ全体のムードを捉えられずにいました。
ところが村上訳「ギャツビー」を読了したことで、それはことごとく解決してしまいました。

フィッツジェラルドは、アメリカミネソタ州出身でプリンストン大学を中退しています。
彼を取り巻く周囲の環境は凄まじいものがありました。
フィッツジェラルドのアルコール依存症と妻の浮気、浪費癖、そして発狂。
一人娘の養育。彼はたった一人で全てを背負い、ペン一本で人生を全うするのです。
血反吐を吐くような想いで小説を書き続け、けれどその蝕まれた体に改善の余地はなく、44歳という若さでこの世を去ります。
そのフィッツジェラルドが生命を削って書き上げた「グレート・ギャツビー」に、盛大な拍手を贈りたいのです。
そしてこの作品を、より身近なものとしていつくしむきっかけを与えてくれた村上春樹に心から感謝の気持ちを表したいのです。

つらつらとあらすじを語るより、私の好きな一文をここでご紹介。

「人生というものは詰まるところ、単一の窓から眺めたときの方が、遥かにすっきりして見えるものなのだ。」

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2006年11月20日 (月)

静かな夜景。

月曜日の職場は朝から慌しい。
でもお昼を過ぎると急にお客さんは退けて、窓口業務に携わる者は手持ち無沙汰な状況に陥るのです。
私が一人この場からいなくなったところで、何の支障も来たしません。
特に用事もなければ目的もないのに、私は2時間ほど早引きすることにしました。
同期のSさんが素早くそれを察知すると、
「さんとう花さんが帰るなら私も。」
と言っていっしょに仲良く時間休の申請をしました。
「この後、用事がないならお茶しようよ。」
と誘われるまま、私は彼女の運転するクラウンの助手席に乗り込みました。
Sさんは私と同期なのですが、年齢は一回り年上の47歳、20歳と18歳のお嬢さんの母親でもあります。
スラリとした168cmの長身で、茶髪のロングヘアーが人目を引くのです。
日本女子大学卒の才女にもかかわらず、番長(?)のような風格が漂っていて、同性からは一目置かれます。
Sさんの行きつけのカフェで、ホットコーヒーとN.Y.チーズケーキを注文すると、他愛もないおしゃべりを楽しみました。
Sさんはケーキを突きながら、まじまじと私の顔を眺めて言いました。
「さんとう花さん、この頃明るくなったねぇ。」
「そうですか?」
「男でもできたの?」
「あははは・・・。」
Sさんの言葉はストレートで、包み隠すものがなく、でも悪意のない心地よさがありました。
「こういうところへは、私なんかとじゃなくて、カレと来るものなのにね~。」
「Sさんとだって充分楽しいですよ。」
「でも、さんとう花さんはストイックすぎる。」
「そうですか?」
Sさんと私は、そうして女子大生のようにキャッキャッとつまらない話をおもしろおかしく膨らませて、語り尽くしました。
「さんとう花さん、幸せになりなさいよ。」
もう彼女は私に誰か意中の人がいるのだと信じて疑わないのです。(笑)
Sさんはなんだか嬉しそうに、
「お祝いに(?)ここの支払いは私が。」
と言って、コーヒーとケーキをごちそうしてくれたのでした。

再びクラウンに乗り込むと、
「ちょっと遠回りしよう。」
と言って、とっぷりと日も落ちた362号線を滑るように車を走らせました。
やがてSさんは興奮ぎみに、
「見て見て!」
と、私を促しました。すると視界に広がる車窓の向こうは、漆黒に浮遊する様々な色をした宝石がそこかしこに散らばっているのでした。
その光の数だけロマンがあるのかと、しばし無言で見とれていると、
「この夜景は女同士で見るものじゃないよねぇ・・・。」
と、Sさんがこぼしました。
「そんなことないですよ。私はとても嬉しい。」
私はその静かな夜景をプレゼントしてくれた彼女の優しさが、とても嬉しかったのです。

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2006年11月14日 (火)

ロビンソン。

親友のK美さんが電話越しに哀しくつぶやきました。
「イヴは○○さん(独身35歳女性)と二人でクリスマスケーキを作るの。」
私は返す言葉に窮して、「楽しそうだね。」と答えました。
「○○さんは私がクリスマスに予定が入っていないことを見越して誘って来るんだから・・・。」
この会話の成り行きは危ないと思いました。
この勢いに乗じておそらくきっと私は「ケーキ作り」に誘われるに違いないと先を読み、
「私もそのケーキ作りに参加したいところだけど、(物理的距離が)遠いから、行けそうもないし・・・。残念だなぁ・・・。」
と、すかさずお断りの返事をしておきました。
K美さんがシニカルに笑う声を聞いた時、このままではいけないと思いました。彼女を救済せねば(?)と思いました。

私は「ロビンソン」を聴きました。
これは友人が私のために送ってくれたCDの中に収録されていたスピッツの名曲なのです。
この曲は1995年にリリースされたヒット・ソング中のヒット・ソングなのです。海外のミュージシャンにもカバーされています。
スピッツはメロディアスで甘美な詩などが世間で広く認められているグループなのですが、アルバムによってはかなり「とんがった」色彩を放っていて、実はパンク的な要素も充分に兼ね備えたロック・バンドなのではないかと思われます。

今から12年程前、まだ私がこちらへ引っ越して来る前、イトーヨーカドー内のCDショップに勤務しているころ。
私がレジ番をしていると、一人の男性がぬっと現れました。
年齢は(当時)27,8歳。身長は175センチ程で、派手なシャツに黒のスラックス、口には禁煙パイポをくわえていて、うっすらと口ひげをはやし、いかにも「悪そうな」雰囲気が漂っていました。
「喫煙所はありませんか?」
「このフロアの一番西側にございます。」
「ありがとう。」
イントネーションが関西なまりだったので、すぐにその男性が地元の人ではないことが推測できました。
それからその男性は毎日のように現れました。
でも買っていくものは、CDケースや100円のカセットテープだったり、大したものではないのです。
店内をしばらくウロウロした後、つまらない買い物を済ませると、私とも口をきくことはなく、いつの間にかいなくなってしまう人でした。
それがある時、急に、その男性はつかつかとレジの前に歩み寄って来ました。
「ねぇ、店で流れているこの曲、なんていうタイトルなん?」
「スピッツの『ロビンソン』という曲です。」
「ふうん。ええ曲やなぁ・・・。」

待ち伏せた夢のほとり
驚いた君の瞳
そして僕ら今ここで
生まれ変わるよ

その男性はしばらく「ロビンソン」に耳を傾け、曲の終わりに合わせて、優しい目だけを私に残すと、お店を去って行きました。

誰も触れない二人だけの国
君の手を放さぬように
大きな力で空に浮かべたら
ルララ 宇宙の風に乗る

それが彼との出会いでした。
一年後、私は彼の熱烈なプロポーズを受け、結婚しました。

けれど、その彼も今はこの世の人ではありません・・・。

やっと、やっと、「ロビンソン」を聴くことができました。
今思い出すのは、店内に優しく流れていた「ロビンソン」と、風のように去っていった彼の後ろ姿だけなのです。

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2006年11月12日 (日)

言葉にできない。

人は皆、「これが最後の恋」だと思って人を好きになるのです。
でも、どうしようもない気持ちのすれ違いや、お互いの不完全な性格が災いして終焉を迎えます。
私も「もう人なんか好きにならない」と決めていたはずなのに、その頑なな気持ちは時間の経過とともに和らいでゆくのです。
それはまるで、冷凍庫で眠っていたカチンコチンのアイスクリームを暫く常温に置いておくと、みるみるうちに溶けていくように・・・。

友人がCDを送ってくれました。
本人が好きな曲を選りすぐったオムニバスタイプのものなのですが、吉田拓郎、中島みゆき、コブクロ、それに森山直太朗まで収録してくれました。
中でも私の耳を釘付けにしたのは、小田和正の「言葉にできない」です。

終わる筈のない愛が途絶えた
いのち尽きてゆくように
ちがう きっと ちがう 心が叫んでる

ひとりでは生きてゆけなくて
また誰かを愛している
こころ哀しくて言葉にできない

la la la ・・・言葉にできない

(中略)

あなたに会えてほんとうによかった
嬉しくて嬉しくて言葉にできない

私は小学生のころオフコースが大好きで、公認ファンクラブにも入会していました。
登校する際は、毎朝、「愛を止めないで」を口ずさみ、マッチ、トシちゃんファンのクラスメイトは私を変わり者呼ばわりしていました。(笑)
放送委員会に所属していた私は、下校時の音楽に「さよなら」を流し、センスのない教頭先生に優しいお叱りを受けました。
ならばと思い、朝清掃の音楽に「Yes-Yes-Yes」を流してみると、今度は担任から、「さんとう花、趣味は自分だけで楽しむものだぞ。」と、職員室で延々注意を受けました。

オフコースは、小田和正、鈴木康博らが中心に結成したフォーク・グループです。(80年代に入ると、ニューミュージック・バンドと呼ばれるようになります。)
1989年に東京ドームでのコンサートを最後に、オフコースは解散します。
その後、小田和正はソロ・ミュージシャンとして活躍し、’91年の「ラブ・ストーリーは突然に」でシングルチャート第1位を獲得し、現在に至ります。
「言葉にできない」は、結成当時から共に活動して来た盟友、鈴木康博が脱退した時や、オフコースの解散時に歌われた小田和正の名曲なのです。

洋楽一辺倒の私が久しぶりに耳を傾けた邦楽。
たまには良いものですね。
「グレート・ギャツビー」に出て来るニックのように、私はものを考えるのにいちいち時間がかかる性格なのです。欲望に歯止めをかけてくれるいくつかの規則を後生大事に抱え込んでいるのです。
でも私もやはり、例外ではなく、ひとりでは生きてゆけないのです。
そしてまた、誰かを愛してしまうのかもしれません・・・。

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2006年11月 6日 (月)

白い部屋。

この手記を、天国の母にささげます。

その日も朝から三方原方面行きのバスに乗った。
車窓から見上げる空は、まるでパステルカラーでまんべんなく彩られたように明確な色に染まっていて、思わずため息が出てしまった。
入院中の母の病状報告を聞くことに抵抗があった。医師の口から一体どんな宣告を受けるのかと、不安や恐怖が私の胸の内を往ったり来たりしていた。
病院特有の淀んだ空気の臭いをかぎながら、カンファレンスルームに通された。
「さて、お母様の病状ですが、率直に申しますと、あまり芳しくありません。」
(やっぱり・・・。)
私の漠然とした不安は的中していた。
「手術をしたところで改善の余地はなく、おそらくこのまま見送ることになると思います。余命、あと一年・・・いや、半年というところでしょうか。」
医師の声は重く、苦渋に満ちていたが、しかし冷静だった。
全身緊張の波が襲い、地震でもないのに身体がゆらゆらと揺れた。
心のどこかで予想はしていたものの、にわかに信じ難い現実に身体のバランスが取れなくなった。
母は末期ガンで、既に手の施しようがなかったのだ。
「告知しますか?」
私は搾り出すような声で、
「いいえ、黙っていて下さい。お手数ですが、お願いします。」
と、答えるのが精一杯だった。
全身が鉛のように重く、すぐには立つことすら出来なかった。
(どうしたらいいんだろう・・・?)
病室に向かう途中、こみあげてきそうなものを必死に堪えながら、自分の不甲斐なさに嫌気がさした。
母は今年七十歳。晩婚のため、四十二で私を産んだ。もちろん、私に兄弟姉妹はいない。父は二年前、既に他界している。
そんな中、支えてやれるのは一人娘の私だけなのに、その術がわからなかった。
むしろ、自分の方が誰かにすがりつきたい気持ちだった。

病室に入ると、母をまともに見ることも出来ず、私の顔は不自然に歪んでいた。
悟られまいと懸命に装うが、母は私の表情など気にするわけでもなく、
「たいくつだやぁ・・・。早く帰りたいやぁ・・・。」
を連発した。
女優並みの芝居を演じ終え、仮面を脱ぎ、素に戻って家に帰ると、冷たくなった洗濯物を急いで取り込み、夕飯の支度に取り掛かった。
と言っても、何か手のこんだ物を作る気力もなく、簡単にヤキソバを作って食べた。
見たい番組などなかったが、テレビのスイッチを点け、ぼんやりと画面を眺めていた。
(そろそろコタツ出さなくちゃ・・・)
家のことは全て母任せだった。しかし、これからはどんな些細なことでも自分がこなさなくてはならない。
面倒な仕事が一つ、また一つと増えていく度に、母にどれほど頼って来たかを思い知らされることとなった。
(これで本当に良かったのかな・・・?)
果たして、告知しないことが正しかったのかどうか、まだ悩んでいた。
私は臆病者で、七十歳の母に真実を伝え、その明るさ、朗らかさを奪ってしまう勇気がなかった。筋道立てて事実を知らせ、死と向き合う強さを要求することが出来なかったのだ。

年末になって退院の許可が下りた。
母はナースセンターに立ち寄り、医師や看護士たちに「お世話になりました」と頭を下げた。
タクシーで帰る道すがら、母は、
「もう、帰れんかと思った・・・」
と呟いた。私は素知らぬふりをして通り過ぎる景色を目で追っていた。
胸が詰まって悲鳴を上げそうになった。

どうにかこうにか年を越すことが出来たとホッとする間もなく、明けてすぐに母の病状が急変した。再入院だった。
その表情に生気はなく、暗く濁った瞳が行き場を失くし、宙を泳いでいた。
(もうダメなのかな・・・?)
寝ている母の脇で、ただ呆然とその顔を見ていた。
私はこれまで、母が死ぬなどということは考えもしなかった。
生きていて当たり前。まるで永遠であるかのような錯覚をしていた。
しかし、父が亡くなったのと同様に、母にもやがて訪れる。
死は、確実に近付いていた。
肩で息をしながら、母は弱々しく視線をこちらに向けた。
その瞳はもの憂げで、慈悲深かった。何かを発したくとも音声にはならず、ただ私を凝視していた。
「お母さんがいなくても、ちゃんとやっていけるかね? 大丈夫かね?」
言葉はなくとも、それは瞳の動きだけで察知出来た。これはアイ・コンタクトと呼ぶものだろうか?
間違いなく、確かに、母の言葉が聞こえたのだ。
私はたまらなくなって、視線を逸らした。
その深い愛情の前に、私は無力な子供でしかなかった。
医師が、「ここ二、三日だと思います。」と告げた。
延命措置如何について問われたが、全て断った。自然に逝かせてくれるようお願いした。もうこれ以上苦しい抗がん剤の副作用や体中を切り裂くような激痛と闘う母の姿を見ていられなかったのだ。
往生際の悪い私は、この期に及んで神に祈りを捧げた。
(神様、お願いです。母を助けて下さい! お願いします・・・!)
この宇宙を創造し、多くの奇跡を起こし、絶大なる力を誇る神が本当に存在するならば、母一人の延命に手を貸すぐらい造作も無いことだと思ったからだ。
しかし、私の願いは脆くも打ち砕かれ、神が人間の描いた妄想に過ぎないことがすぐに明らかとなった。
病院から帰宅後、不意の電話。母が危篤との連絡だった。
(ついに来たか・・・)
私はすぐにタクシーを呼んだ。
玄関を出ようとして思い直し、叔母に連絡を入れた。念のためのつもりだったが、内心、
(今夜が最期なんです。いっしょに看取って下さい。)
と言う、潜在意識が働いたのかもしれない。
急く気持ちを抑えて、門先でタクシーを待っていると、その日に限って五分と待たずにやって来た。
「S病院まで。」
運転手に行き先を告げる私の声が、わずかに震えた。
平静さを装うとするものの、どこか落ち着かない私にただならぬ状況を察したのか、運転手は到着するまでのあいだ一言も発しなかった。

病院に駆けつけると、まだ叔母は来ていなかった。
私は寝ている母に向かって夢中で、
「お母さん! お母さん!」
と呼びかけた。同室の患者さんたちへの迷惑も省みず、何度も何度も繰り返した。その声を聞きつけたのか、背後から医師と看護士がぬっと近付いて来て、
「残念ですが、既に亡くなられました。」
と告げた。
「午後八時二十分でした。とても、とても安らかなご臨終でしたよ。しばらくお別れをなさって下さい。私どもはナースセンターにおりますから。」
医師の声がとても遠くに聞こえた。
病院の夜の静けさは特別で、同じ病棟のずっと離れたところで誰かが咳込む声がした。
少しだけ開いていた窓から入るわずかな風に、白いカーテンがゆらゆらと揺れており、あとは無機質な空間が広がるだけだった。
「お母さん、お母さん・・・!」
返答はないとわかっていたが、万が一、万が一のこともあるかもしれないと思ってもう一度だけ呼びかけてみた。
しかし、それは虚しい試みに過ぎず、私の声が高い天井にビーンと響いただけだった。
脱力感の中、白いベッドに横たわる母を見た。既にその顔に生気はなく、口は半ば開いたままだった。どことなく口元に笑みを湛え、全ての煩悩から解き放たれた優しさと美しさをかもし出していた。
母の最期は実に静かで、穏やかだった。
その直後、セキを切ったように涙が溢れ出て来た。我慢しよう、我慢しようとすればするほど、それは嗚咽となり、滂沱として頬を幾筋にも流れた。
もう母の声は聞けない。明るく陽気な笑顔も見られない。生きて会うことはないのだと、辛く哀しい現実が私の胸に突きつけられた。
(人は死ぬんだ・・・)
生きとし生けるもの全ての宿命を、今さらのように感じた。
生きていることと死んでいることは、両極ではなかった。
むしろ死は影のようにくっついていて、離れるものではない。

人は皆、「母」という砦を失くした時、漸く人生の儚さを感じるのかもしれない。
(今の私に何ができる?)
両手を広げて守ってくれた存在は跡形もなく、臆病な猫のように、他人の顔色を見る私。
(今の私に何ができる?)
これから先、幾度となく得体の知れない暗い衝動に駆られるかもしれない。
それでも私は、もう無条件に息をし続けなければならない。
「生きる」とはそういうことなのだ。

※某文芸誌において、平成十三年に掲載された作品に加筆・訂正をしています。

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2006年11月 5日 (日)

天沼矛。

「全てはあいまいな印象の向こう側に隠されたまま・・・」

自分という人間を持て余してしまう時があります。
相手が求めるものに対して、自分は一向にそれに応じることが出来ず、がっかりさせてしまいます。
どうにかして伝えなくてはいけないと思ったところで、その感情は理性によって抑制され、紡ごうとした言葉たちは音声となる前に消滅してゆくのです。
相手の求めているものと自分が求めているものの相違は、どちらか一方の犠牲の下に埋められていくものなのかもしれません。
私は、相手の犠牲の上に存在しているのでしょうか・・・?
漠然とした展望のあいまいさは、相手に疲労感だけを植え付けてしまうのでしょうか・・・?
文字の羅列を追いかけることに小休止して、私はマンガを読むことにしました。
山岸凉子の『月読』という作品集の中に入っている一作なのですが、「天沼矛」(あめのぬぼこ)に年甲斐もなく胸を熱くしました。
これは、日本の古典をモチーフにしています。
ここでは、私の好きな第一話「夜櫻」について少しだけご紹介します。

たった一人きりの孤独な神がいました。
神の御殿は真っ暗な闇の世界。
庭には満開の夜桜がはらはらと散っていました。

「ああ、寂しい」

神はその孤独感に押し潰されてしまいそうでした。
その孤独と静寂の最中、あまりの辛さに涙が零れ落ちました。
やがてその涙は小さな水沼となるのです。

「そうだ、わたしにはあれがあった。」

神は突然、沼矛のことを思い出しました。
その天沼矛で水沼をゆっくりとかき回しました。

「愛しい人よ、出ておいで。」

すると、一人の美しい少女が水沼の上に生まれました。
それは、孤独と絶望の闇の最中に射した一条の光でした。
その愛しい生命を永遠に独占したい。
自分の肉の一部として守り抜いていきたい。
神はその誕生を祝い、歓喜のあまり、思わず少女を抱きしめたくなりました。
しかし、少女は神の恐ろしい姿に怯え、顔を背けてしまうのです。
なぜなら、その若い神は蛇神で、その姿は大蛇だったのです。
運命とは皮肉です。
孤独と絶望の深淵から這い上がるために、さらには、自分の肉の一部として愛おしむべき存在として生み出した少女のはずでしたが、彼女は一個の人格を持つ人間でした。
神の一部でありながら、実は他者だったのです。
少女は完全に神を否定し、受け入れなかったのです。
神は再び孤独のどん底を味わうことになってしまいました。
それは、少女がいなかった時より現れた今の方が何倍も感じられる空虚感、徒労感、そして狂信的な寂しさでした。
神は自分の求めているものが叶えられることなく、また、恐怖に怯える少女を救いたい一心で、自らの姿を消してしまいます。

このストーリーは最終的にハッピーエンドです。
神の自己犠牲によって、少女は一番大切なことを知るのです。
少女のために自らを犠牲にした神が、息絶えてしまった時、彼女は羞恥心を捨て、自尊心を捨て、けがれのない豊かな乳房を神に差し出すのです。
その乳房から滴るあたたかな乳汁は、やがて、神の生命の躍動を再び呼び起こすことになるのです。

生命の誕生とは、なんと神秘的で、そしてロマンチックなことなんでしょう。
どれほど愛おしく大切に想う人でも、それが自分以外の他者である限り、自分の思うままにはいかないのです。
けれどそこに「絆」が存在する限り(それはもしかしたら「親子」、あるいは「夫婦」の関係に当たるものでしょうか。)、永遠の愛が泉のように広がっているのです。

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2006年11月 3日 (金)

山月記。

自分の才能なんて、大したことはない、取るに足らないものなんだと悟ったのは、いつの頃だったでしょう?
美大への進学を断念した時か、あるいは努力の意味とか意義を見失った時か・・・?
そうして私は、結局、自分の中ではどうあっても畑違いのコース(英文学科)へ進学しました。
不本意な選択だとは思いたくない一心で、とにかくそこに自分の価値を見出さなくてはと思い、教職課程の単位までカリキュラムに詰め込み、どうにかこうにか中学校教諭第二種免許まで取得しました。
今となっては必死で取得したその資格も、宝の持ち腐れでしかありません。

私は「山月記」を読みました。
この作品は私が高校の時、現代国語に掲載されていて、もちろんその授業も受け、私にとっては苦しくて切ない小説でした。
作者の中島敦は東京都出身で、東京大学国文学科を卒業しています。卒論のテーマは「耽美派の研究」で、カフカ、ガーネット、ロレンス等西欧文学の影響を如実に受けています。
しかし彼の作品の特徴は、漢文調の格調高い文体になっているから不思議です。
「山月記」は中島にとってのデビュー作です。
主人公の李徴は博学で才能ある詩家なのですが、なかなか世に認められず、日々悶々として焦燥に駆られるのです。
妻子の衣食のために自我のプライドを一度は捨て去り、気の進まない仕事にも就きました。
けれど李徴は「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」に苛まれ、いよいよ発狂し、出奔してしまいます。
彼の中の「人間」は姿を消し、気がつくと「虎」になってしまっていたのです。
彼はずっと自問自答します。
「どうして虎になってしまったのか?」と。
けれどいつの間にか、
「自分はどうして人間になってしまったのか?」
という自問自答に変化してゆくのです。
才能とは残酷です。
この極限の葛藤に、私は滂沱として涙がこぼれました。
彼の絶望的な孤独癖に、自分を見たような気がしました。
私には才能というものはありませんが、打ち砕かれる夢の破片を拾い集めながら、「いずれ・・・」「そのうち・・・」という希望にかけていたのです。
でもそれは気休めでしかありませんでした。
全ては幻影なのです。
つかもうとしていた夢の輪郭は手応えのあるものではなく、また、匂いさえ感じられませんでした。

私生活の中島は、「山月記」の李徴そのものと言っても差し支えありません。
彼は24歳という若さで結婚しています。文筆業ではとうてい生活など出来なかったので、妻子を養うために教員をしながら創作に励むのです。
彼は書き上げた原稿に納得がいかないと、家人に、「こんなもの、焼き捨ててしまえ!」と言いつけました。
しかし妻は、中島の才能を誰よりも認めていたこともあり、書き損じの原稿まで丁寧にのばして保管しておくのでした。
どれほど自分が軽蔑的な女性観を持って接しても、それほどまでに尽くしてくれる妻に中島は一体どのような想いを抱いていたのか・・・?
私は次のように推理するのです。
「ボクには才能などというものはない。君はそれに早く愛想を尽かすべきなんだよ。君は器量も良いし、気立ても良い。きっとやり直せる。ボクを見限り、ボクを否定し、ボクから解放されるべきなんだよ。・・・これがボクなりの愛し方なんだ。・・・許してほしい・・・。」

妻の献身的な愛さえ、中島はなかなか素直に受け入れられず、33歳という若さで絶命しています。
喘息の発作が悪化したことによるものでした。
しかし彼は、背中をさすり続ける妻の胸の中で息を引き取っているのです。
最後の最後に、漸く手にした愛の安らぎだったのかもしれません。
彼の真実は、妻を求め、愛を求め続けていたのです。

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