片腕。
「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。
そして右腕を肩からはずすと、それを左手に持って私の膝においた。
この冒頭部を読んだ時、私の身体に戦慄が走りました。
この作品はいみじくも世界に誇る日本の作家、川端康成の「片腕」なのですが、私も含めてシュールレアリズムをどれだけの人々が理解することでしょう!?
「伊豆の踊り子」や「雪国」など叙情的で卓越した風景描写を探求して来た同作家が、同じ表情のまま官能的なエロチシズムにどっぷりと浸かっているのですから・・・。
川端康成は大阪市出身で東京大学英文学科に入学するものの転科し、国文学科を卒業しています。文壇では新感覚派の代表格でもあります。
1968年に、日本人として初めてノーベル文学賞を受賞しています。
非常に短い小説なのですが、ここにあらすじを紹介しておきます。
主人公の私は娘から「右腕」を貸してもらった。
大切に右腕をアパートの一室まで持ち帰ると、愛おしい右腕と他愛もない会話を楽しむ。
私はついつい右腕にいたずらしてみたくなり、指先をくすぐってみた。
右腕は私に触れられた瞬間、その感性の豊かさゆえ、肩までも震えが来てしまうようだった。
それから私はいたずらっ子のように右腕を膝に乗せ、愛でて、手を握ってみたり、ゆっくりとその腕の肘を曲げてみたり、伸ばしてみたり、繰り返した。
それから私はさらに面白いいたずらを思いつく。
娘の右腕と私の右腕を付け替えてみようと思ったのだ。
そしてその行為を堪能した後、私は娘の右腕を抱えてベッドに入った。
右腕は毛布の中で私のぬくもりにしだいにあたたまっていくのだった。
この作品については三島由紀夫が大絶賛しているのですが、残念ながら、私にはどこがどう優れていて素晴らしいのかよくわかりません。
ただ、かろうじて私に感じられるのは、一筋縄ではいかない人間の業と欲。常人と言えども持ち合わせる、あけすけに出来ない変態嗜好。形を変えた愛の極致。
私は自分がわからなくなった時、この会話を思い出すかもしれません。
「自分・・・?自分てなんだ。自分はどこにあるの?」
「自分は遠くにあるの。」と娘の片腕は慰めの歌のように、
「遠くの自分をもとめて、人間は歩いてゆくのよ。」
「行き着けるの?」
「自分は遠くにあるのよ。」娘の腕はくりかえした。
自分が遠い存在のものなら、自分がわからなくて当然なのです。
その自分に近付こうとして必死で人間は艱難辛苦を乗り越え、いつか自分と対峙できる日を夢見ているのですから。
「いたいっ。」と娘は頭のうしろに手をやった。
「いたいわ。」
白いまくらに血が小さくついていた。
私は娘の髪をかきわけてさぐった。
血のしずくがふくらみ出しているのに、私は口をつけた。
みなさんは愛する人の流した血を、口で拭ってあげられますか?
失心するほどの狂喜に酔いしれたことはありますか?(笑)
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