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2007年3月31日 (土)

極楽の錠前。

うらうらほろほろ花がちる(山頭火)

今は八分咲きの桜も満開を経て、やがて散りゆくのです。
森閑と並び立つ桜の老樹は、私を稚児のように扱い、風に誘われてそのかいなに私を包み込みます。

けだるく憂鬱な春の夜は、なぜか人恋しくなるのでしょう。
むしょうに誰かと話したくなるのでしょう。
過去の優しい記憶に思いを廻らせ、自慢話の一つもしたくなってしまうのです。
最近よくK美さんと長電話をします。
K美さんとは高校時代からのマブダチで、当時から数々の思い出を共有しているのです。
社会人となってからK美さんは何人かの男性と付き合って来たようなのですが、中でも創作料理職人との別れはなかなかのもの(?)です。

「ある日突然の別れだったよ~。デート帰りの車中でケンカしちゃってさ~」
「そりゃまたどうしてなの?」
「あの人さ~悪い人じゃなかったんだけど、自慢話が多くって~」
「へ~たとえば?」
「みんなが自分の創作料理を褒めちぎるとか、自分じゃなきゃあの味は出せないとかいろいろ言うんだけど、それはおまえが評価することじゃないって言ってやったよ。仕事の評価はあくまで他人がすることであって、自分じゃないんだよ。そりゃあ他人は褒めるさ。本人を目の前に悪し様に言ったりはしないさ。ましてや板長に向かって下っ端は必死になってお世辞の一つも言うだろうしね。」
「ワォ!K美ちゃんカッコイイ!」
「武勇伝、武勇伝。ブユウデンデンデデンデン♪」
って、それが別れのきっかけだったとは(笑)
彼女の凛々しい姿(?)を想像すると、思わず同性であることを嘆きたくなるのでした。

鮮やかな青空の広がる長野の善光寺へと初詣に出掛けた際。
私とK美さんは「お戒壇巡り」を体験しました。
本堂の床下の真っ暗な闇の世界。
視界は黒一色に広がり、埋めるべき空間が何一つない異様な光景。
その通路を手探りで歩き進むのです。
私は恐怖で腰が引けてどうやっても前進できませんでした。
K美さんは私の手をしっかりと握りしめながら、
「キャー!コワーイ!」と叫び声をあげてはいるものの、なんだか足取り軽くどんどん前へ前へ行こうとするのです。
他のお客さんも押し退けて、
「あ、すみませ~ん。キャー!コワーイ!」と、かなり冷静な悲鳴(?)なのです。
私は恐怖のあまり声も出ない中、ズルズルと手を引っ張られK美さんのおかげで出口へと向かうことができました。
しかも、「あ、さんとう花さん『極楽の錠前』に触らなくちゃダメじゃん。ご利益があるって書いてあったよ。さわりな、さわりな。」
と、ぬかりない観察力。
K美さんを女にしておくのがもったいないとこの時ほど思ったことはありません。私の手を握る手が男の人のそれだったら・・・ああ、無念。

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2007年3月21日 (水)

彼岸に逝く。

だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。
流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
(村上訳『グレート・ギャツビー』より)

自宅から母の入院していたS病院までほとんど毎日バスで通っていたことが、まるで昨日のことのように思い出されます。
バスに乗っている三十分間は孤独と絶望の中に閉じこもっていて、「母が死ぬ」という現実を受け入れられずにいつも己との闘いでした。
悪夢なら一刻も早く覚めて欲しいと願う一方で、母にどう上手く嘘をつこうかとそればかり思いあぐねていました。
保険の適用されない丸山ワクチンや漢方薬のサルノコシカケを処方される中、いくら私の名演技を持ってしても、病人特有の鋭敏さで末期ガンであることに気付かないはずがなかったのです。
もしかしたら母は娘の心中を察して、知ってて知らないフリを通してくれたのかもしれません。
私は二十四歳の時、父を亡くしましたが、わずか三年後の二十七歳で母も亡くしました。
平成十一年三月二十二日、二十時二十分、お彼岸に逝きました。

密葬という形の、静かで寂しいお葬式にはごくごく親しい親戚のみが集まってくれました。
火葬場の控え室で叔父や叔母のご機嫌を取ることに苦痛を感じた私はそこから抜け出し、肌を刺すような冷気に包まれた駐車場から高い煙突をみあげていました。
もくもくと天に立ち昇る煙りを見た時、不覚にも涙がこぼれました。
まだ喪主としてやり遂げねばならないことは山ほど残されていたのに、はらはらと止めどなく流れる涙を拭うこともせず、その場で崩れ落ちるようにしゃがみこんでしまいました。

そういう哀しい記憶を私は生涯忘れることはないでしょう。
ただ、時間の経過とともに鮮明だった記憶もぼんやりとしていくのです。
まるで、記憶の外側にベールを被せられたみたいに。
過去というのはこぼれ落ちるように薄らいでいくのかもしれません。
そうやって私は記憶の哀しみを追い越し、追い越されながら、それでも未来へ通ずる真っすぐな、あるいはイバラの道を歩んでいくしかないのです。

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2007年3月18日 (日)

男子の本懐。

私が高校2年生の時、クラスで「みたらし団子論争」なるものが勃発しました。発端は何だったのか今となっては思い出せませんが、「だんごは餡子に限る」派の私と、「絶対にみたらし」派のK美さんとクラスは二分されたのです。
女子高だったこともあり、「どっちでもいいじゃん~」というムードが蔓延する中、私とK美さんは女の意地とプライドをかけ、はたまただんごの何たるかまでを追求し(?)激しい論争を展開したのです。
当時から甘党だった私は「餡子というのはコーヒーにもお茶にも合う。漉し餡も好し、つぶ餡も好し。だんごの素朴な風味を最大限に生かしてくれるパートナーなのであって絶妙なコンビネーションを誇る代物なのだ」みたいなことを言うと、K美さんは真っ向から反対し、
「なるほどそうかもね。でもみたらしの魅力は万人受けするところだよ。甘いものが苦手な人でもみたらしなら抵抗なくだんごというものを堪能することができる」と言って両者一歩も譲らず。
結局私たちは「これは嗜好の問題だ」という結論に行き着き、和解するのでした(笑)

私は城山三郎の「男子の本懐」を読みました。
性格も境遇も正反対の二人、浜口雄幸と井上準之助が一つの政策に全身全霊を込めて打ち込む姿を城山が独特なタッチで淡々と綴った作品なのです。
不思議なのは、あくまで小説なのにノンフィクションのようなリアリティさが随所に散りばめられているところです。
著者の城山三郎は名古屋市出身で一橋大学を卒業しています。
主に経済小説を手掛けています。「総会屋錦城」で直木賞を受賞しており、主な著書に「落日燃ゆ」などがあります。
「男子の本懐」は、第27代内閣総理大臣に就任した浜口雄幸(高知県出身東大法学部卒)と、彼の盟友であり同内閣蔵相に抜擢された井上準之助(大分県出身東大法学部卒)が命をかけて「金解禁」という目標を達するまでのプロセスを描いた小説です。
浜口内閣の最大課題は金解禁と軍縮にありました。
それには政、官界や軍部とも果敢に戦い抜くことのできるバイタリティーのある人材を必要としたのです。
金解禁を断行しうる蔵相には井上の力が必要だったのです。
浜口は三顧の礼を取って井上の説得にあたります。
結果、浜口の不動の信念に突き動かされた井上は、運命を共にすることを誓うのです。
息を呑む国会の答弁や、臨場感溢れる論争は、まるで自分がその場にいて一部始終を目の当たりにしているような感覚にさえなります。

「すでに決死だから、途中、何事か起こって中道で斃れるようなことがあっても、もとより男子として本懐である」

そのように妻子に告げた浜口が、凶弾の傷がもとで死を早めた際、ふだん決して取り乱すことのないインテリの井上が天を仰いで号泣するシーンは、不覚にも入り込んでしまった私の目から大粒の涙が零れました。
しかし、その井上もわずか半年後に凶弾に撃たれて絶命します。

二人の静と動の名コンビにあこがれます。
この友情と苦闘から私たちは一体何を学べるのでしょうか?

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2007年3月15日 (木)

世話焼き。

「人が何かを失ったと確信するのは、それを失った瞬間ではなく、失っていることに気づいた時だ」
(『双子と沈んだ大陸』より村上春樹・著)

自分がどれほど恋焦がれて、もしかしたら振り向いてもらえるかもしれないと甘い夢を抱いていたとしても、それは必ずしも叶えられるものではありません。
絶望的にそれに気づいてしまった時、人それぞれだと思いますが、おそらく次へのステップアップのために自分自身をリセットするかもしれません。

私は親友のK美さんから結婚披露宴の友人代表のスピーチをお願いされています。さらに、受付嬢も依頼されています。
「35歳のオバさんなのに、私なんかでいいの?」と、申し訳ない気さえしますが、それだけに頼りにされているのだと思えば一肌でも二肌でも脱いであげねばとも思うのです。
しかし哀しい哉、K美さんには結婚相手がいまだ現れません。
片想いの彼とのことはどうやら決着がついたようで、新しい出会いを求めているのです。
友人の私が彼女を売り込むのもおかしな話ですが、それはそれは面白い性格の持ち主なのです。
「酒は飲んでも飲まれるな」を地でいくような、酒豪タイプ。底なしなのです。
お笑いが好きで、特に上方芸人を愛して止みません。
私と同じ高校を卒業しているのですが、成績は常にトップ。知識と教養に溢れた才女なのです。
似ているタイプの芸能人は? と問われたら、
本人は「松嶋菜々子」と即答するでしょう(笑)
けれど友人の私が冷静かつ客観的な判断を下すと、森三中の村上と大島を足して2で割ったような風格(?)があります。
彼女のこれまでの男性の傾向を見ていると、とにかく野暮ったい感じでスマートさに欠け、そのくせ妙に頭の切れる人が多かったように思います。
ある人はPCのエンジニアだったり、あるいは新聞記者だったり、料理人だったり・・・
そんなことをバラすと「じゃあおまえはどうなんだ?」と突っ込まれそうなので私も人のことは言えませんが。
とにかく今の彼女の心境としては「ぜいたく言ってる場合じゃない、とりあえず男ならなんでもいい」という状況にまで切羽詰っていそうな勢い。
ああ、どうにかしてあげたい。
年齢30~45歳ぐらいまでの独身男性、どうぞK美さんと結婚してあげて下さい!
身長、容姿、学歴問いません。バツイチ、長男、OKです。
本人至って真剣な交際を望んでおります。まずは友だちからいかがでしょうか?(笑)

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2007年3月13日 (火)

勧酒。

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

ご主人の転勤に同行するため、職場の同僚が去りました。
私と同い年の彼女は、美人でスレンダーで仕事が良く出来て申し分のない人物でした。
私が車を所有していないので彼女はいつも足代わりになってくれて、美味しいケーキのお店やランチバイキングなどにつれて行ってくれました。
そんな彼女ともいよいよ別れを告げることに。
職場の仲間で送別会を催した時、残念ながら彼女とは同じテーブルではありませんでした。
私はお酒が弱いので「飲めない派」のテーブル。彼女は強いので「飲める派」のテーブル。
遠巻きに眺めていると、皆が次から次へと彼女のグラスにお酒を注ぎ、そのそばから飲み干していくのでグラスが空になることはありませんでした。

生きていれば数限りない人たちとの出会い、そして別れがあります。
その中で「また会おうね」と約束して確実に会えたことなんて、ほんの数回です。ほとんどが年賀状のやりとりに限られてしまい、時間を割いてまで会うことはありません。
でもそれは当たり前のことなのです。
皆それぞれに生活があって、限られた枠の中で優先順位をつけ一つ一つをクリアしていく毎日なのです。
時間とお金があれば気軽に会えるかもしれません。あるいは気持ちに余裕があったら電話の一本もかけられるかもしれません。
けれどそれすらままならないのが普通大抵のこと。
最後の最後、同僚が引越し当日職場に顔を出した際、私は「また会おうね」と言ってかたい握手を交わしました。
でも、「もう、これが最後かもしれない」心のどこかでそう思いました。
彼女が皆に挨拶を済ませて正面玄関の自動扉を出た後も、彼女を見送り続けました。
その颯爽と去り行く彼女の背中には微塵の躊躇もなく、きっと新しい環境でも上手に切り抜けていくだろうと確信するのでした。

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2007年3月 9日 (金)

修禅寺にて。

人生には予想もしていないことが度々我が身に降りかかります。
それらが全て良いことなら何ら問題はないのですが、ほとんどはささいな不運に見舞われることばかりなのです。
私も落ち着いたのはここ最近で、以前はいつも不満を抱え、孤独の中に閉じこもっていたような気がします。
それが少しずつ変わって来たのは、自分の意識改革もさることながら、私のことを影でそっと支えてくれる人の存在を感じているからかもしれません。

神社仏閣めぐりは単なる趣味に過ぎなかったのに、いつのまにか自分の中の寂しさとか憂いを過去のものに変え、私から離れていくのを手助けしてくれるものになりました。
そうして不思議にも過去は、私の手からこぼれ落ちるように薄らいでいくのでした。
現在の住まいに越して来る前は伊豆の方にいて、そこで父をあの世に送り、結婚生活に破綻しました。
私はそれまでの風向きをどうにかして変えなければと必死になってもがき苦しみ、でも一体どうして良いのか分からず、ただ淡々と時間が過ぎてゆくのを指をくわえて傍観しているのみでした。
自分のことばかりで精一杯になっていた私は、「これではいけない」と、当時まだ存命中の母を連れて近場の修善寺温泉へと出向いたのです。
もちろん、親孝行のマネゴトなどしてみたいという思いもありましたが、自分をリセットする意味で究極の癒しを求めていたというのが正直なところです。
その時の切実な記憶を綴った記事が某雑誌に採用され、今月に入って書店に並んでいます。
タイトルは「修禅寺にて」です。
本当はその全文をここで紹介したいところなのですが、出版の規定などもよく分からないのでやめておきます。
また、その雑誌名も披露して自慢の一つもしてみたいのですが(笑)、なにぶん実名で掲載されているため、ここでは伏せさせていただきます。

生きていれば嬉しいことの一つや二つあるものですね。
私のつたないメモ書きが、全国誌のほんの一ページに活字として生まれ変わった時、思わず夢みるような悦びに心は躍りました。
今私は、ささやかな幸せをかみしめている最中なのです。

※お詫びと訂正・・・私の掲載された雑誌は現在書店の店頭に並んでいる3月号ではなく、4月号に掲載されています。訂正させていただきます。

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2007年3月 8日 (木)

見知らぬ乗客。

お正月に長野の善光寺を詣でた際、私はK美さんとともに信州大学のキャンパスに立ち寄り、長野県庁を横目に見ながら駅周辺を散策しました。
途中、元旦の朝にもかかわらず古書店が営業していたので思わず足を止めました。
店頭に無造作に並べられた文庫本の類をザッと眺めていると、その脇にDVDも置かれていました。ダンボール紙に「どれも¥500安いヨ」と太マジックで書かれていて、なるほどそのせいか名作映画にもかかわらずよれよれのダンボール箱につっ込まれているのでした。
私の目に留まったのはヒッチコック作品の「見知らぬ乗客」。
このDVDを果たして所有していたかどうか、うっかり忘れてしまったのです。同じものを買ったらなんだかもったいない気もするし、もし持っていなかったらこの場で買っておきたい気もするし・・・。
あれこれ悩んでいるとK美さんが気を利かせて「じゃあ私が買うよ」と言って、「見知らぬ乗客」を手にすると雑然とした店内へと消えて行きました。
結局、我が家のDVDの棚を確認するとこの作品はまだ購入していなかったことが判明。K美さんから買い取ることに。
K美さんが機転を利かせてくれたおかげでヒッチ・コレクションに穴を開けずに済みました(笑)

と言うわけで「見知らぬ乗客」を観ました。
この作品は1951年にアメリカで公開され、とりわけ評価の高いヒッチ作品と言って差し支えありません。
原作は「太陽がいっぱい」の著者であるパトリシア・ハイスミスですが、ヒッチの意向を受けてずい分と脚色されています。
主演のファーリー・グレンジャーは ’48公開の「ロープ」でも好演しています。
ヒッチ作品の見どころと言えば、細部まで行き届いた小道具の使い方です。また、特殊なカメラアングルで観る者の心理を先読みし、期待を裏切りません。
では、あらすじです。

テニスプレーヤーのガイ・ヘインズ(ファーリー・グレンジャー)は、列車の中で乗り合わせた客に「あなたのファンだ」と声をかけられた。
ブルーノと名乗るその男(ロバート・ウォーカー)は、ガイの私生活を熟知していた。ガイが悪妻ミリアムと離婚問題でもめていること。それが障壁となって上院議員の令嬢アンとの結婚にたどり着けないでいることなどだ。
やがてブルーノは初対面にもかかわらず耳を疑うような計画を持ちかけて来る。それはブルーノがミリアムを殺し、ガイがブルーノの憎む父親を殺すという恐るべき交換殺人だった。
しかしガイは狂人の戯れだと受け合わない。にもかかわらず、ブルーノは一方的に計画を実行し、遊園地の人気のない草むらでミリアムを絞殺。
その後ガイに対し「望み通りミリアムを殺したのだから、次はお前の番だ。約束を果たせ」と執拗に迫るのだった。

この作品中、思わず心を躍らせ胸をときめかすセリフのやりとりがありました。
それは主人公ガイと恋人アンとのワンシーンです。

「アン、震えているよ。」
「私の愛が届いているか不安なの。」
「それは僕のセリフだ。」

そしてガイはアンを強く抱きしめ、唇を重ねるのです。
みなさんはそういうセリフを言ったり言われたりしたことがありますか?
だいたい日常生活でこのようなシチュエーションにめぐまれず、私にはいまだ経験がありません・・・。

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2007年3月 4日 (日)

千の風になって。

「ただ僕はものを考えるのにいちいち時間がかかる性格だし、欲望に歯止めをかけてくれるいくつかの規則を後生大事に抱え込んでいる。」
(グレート・ギャツビー/村上訳より)

私が村上訳ギャツビーからこのニックのセリフをわざわざ引用したにはわけがあります。
私の数少ない友人の中にSさんという親切心と向上心に溢れた、鮮やかな感情の持ち主がいます。
そのSさんは、私に世間で評判になっている映画や音楽など「これは」というものに限って、録画録音に時間を費やし、紹介してくれるのです。
私はそれらをありがたく受け止めて、時間の許す範囲で楽しませてもらっているのですが、なにぶん人より時間のかかる性格をしていて、あるいは気持ちの問題からなのかすぐには観たり聴いたりも出来ないでいたずらに日が過ぎてしまいがちです。
なので共鳴するのがワンテンポほど遅れますが、それら作品の全てを時間をかけてきちんと大切に私の中で扱っていますので、ご了承、ご理解下さい(笑)

と言うわけで「千の風になって」を聴きました。
もちろん、以前からテレビで度々流れているのを耳にしていたため、新感覚の印象はありませんが、この詩にこめられた「死の受け止め方」は、遺された者たちに大きな勇気と励ましを与えてくれるものだと、今さらながら深い感動を覚えました。
私の母校は毎年四月になると静岡市内の某ホテルで同窓会が開催されるのですが、昨年は賛美歌とともにこの「千の風になって」が皆で歌われたようです。(会報に寄る。)

「千の風になって」はメアリー・E・フライというアメリカ・オハイオ州出身の女性が作者であるとされていますが、自作の出版、著作権を設定しなかったということで原作を離れて派生作品が次々と生まれる要因になったと言われています。(日本では新井満が訳詩を手掛けています。)
米紙によると1977年、映画監督のハワード・ホークスの葬儀で、俳優のジョン・ウェインが「千の風になって」の英語詩を朗読し、また1987年、マリリン・モンローの25回忌の時、ワシントンで行われた追悼式の席上でも朗読されています。
和訳された、深くて静かな精神性の感じられる詩も素晴らしいものですが、英語の方は美しく韻を踏んでいるので曲なしでも充分に堪能できる作品なのだそうです。

私は両親を亡くした際、この「死」という絶対的な運命とどうやって直面していくべきなのか、神経をすり減らして思い悩みました。
一体自分はどうすれば良いのだろう?
この先私は何を支えに生きていけば良いのだろう?
心が激しい不安に怯え、孤独と憂鬱が私の心を苛みました。
もしもあの時、この「千の風になって」と出会っていたら、もっと違った方向性を見出していたかもしれません。

秋には光になって畑にふりそそぐ
冬はダイヤのようにきらめく雪になる
朝は鳥になってあなたを目覚めさせる
夜は星になってあなたを見守る

どうかお父さん、お母さん、鳥になって星になって千の風になって私を見守っていて下さいね!

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2007年3月 3日 (土)

瀑布山不動寺。

毎年この時期になるとどうしても外出が億劫になりがちです。
そうです、今年も花粉症の季節が到来しました。
それでも私は今日に限ってむしょうにどこかへ出かけてみたくなり、帽子、メガネ、マスクの完全花粉症対策スタイルで自転車に跨るのでした。
行き先は不動寺。
奈良時代、行基によって開創された古刹です。

降り注ぐ春の陽射し、小鳥のさえずり。
軽快にペダルをこいでいると柔らかな風が頬を撫で、まるでいたずらに帽子を奪おうとするみたいに私を追いかけて来るのです。

途中、菓匠の大しろで名菓豆大福を購入。(一個¥170)
これが地元では大評判なのです。
上品な甘さと歯ごたえのある豆の食感。
このお店の前を素通りするのは、キムタクから求婚されてそれを断るようなもの(?)に似ています。

参道の入口付近に自転車を乗り捨てておくと、男滝、女滝とある2本の滝を見比べました。
男滝はシンプルで開放的、ちょっと手を伸ばせばすくって飲めそうな勢い。
対して女滝は少し奥まったところにあり、岩がゴツゴツしていて、ひっそりと流れ落ちていました。
急な123段の石段を勢い良く上がると、もう足はガクガクで息は上がり、ふだんの運動不足が如実になりました。
息を整えてから本堂へ参ると、そこには行基作の身代わり不動尊がお祀りされているのでした。
私はそこで恭しくお参りを済ませ、「さて豆大福を食べよう」と、不動寺に隣接した万葉の森公園に移動しました。
万葉の森公園は『万葉集』で読まれた180種類もの花木や野草が四季折々に楽しめるところなのです。
私は自販機であったかいお茶を購入すると、風流な曲水庭園を前に、ベンチに腰掛けました。
水と光と緑で満ち溢れた真昼の庭園は、ある種の神秘的な雰囲気を投げかけていました。
そんな中、小腹が空いたという現実からどうしても逃れられず、豆大福を頬張る私。

一体私は何をしにここへ来たのか?
花粉症に打ち勝つため?
無病息災を祈願するため?
風光明媚な庭園を堪能するため?
その実、豆大福を食べたいがためだったのか?
目的なんてあってないようなものかもしれません(笑)
私はただ、小春日和にサイクリングを楽しみ、ついでに豆大福を食べて癒されたかっただけなのです。
ただそれだけのことなのです。

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