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2008年1月20日 (日)

サボタージュ。

【sabotage】;破壊工作《戦争中の敵のスパイによる橋・鉄道・工場の破壊》、(一般的に)妨害行為。
(「ジーニアス英和辞典」より引用)

伝説の女、K美さんのエピソードを取り上げたらキリがないのです。
それは昨年のこと。
彼女は家庭用の備付け消火器の使用期限が切れたとかで、110番通報。
「あのぅ、家の消火器の期限が切れちゃったんですけどぉ、どうしたらいいですかぁ?」
「えっ!?そんなことで110番通報しないで下さい!!」
その後、K美さんは、延々説教を受けたとのこと。
冷静に考えれば、それは警察に対する職務妨害なのです。
二度とそのような天然ボケをさらさないよう願うしだいであります・・・やれやれ・・・。

久しぶりにヒッチコック監督作品を満喫しました。
やっぱりヒッチの英国時代の作品は最高なのです。
渡米前のものには、英国的サスペンスがプンプンとそこかしこに匂っているのですから。
この頃の作品は、いわば「正統派」の流れを汲むもので、きっちりがっちりと作り上げられています。
今回はその英国時代、1936年にイギリスで公開された(日本では未公開)、「サボタージュ」をDVDで観ました。

その晩、突然ロンドンの街は闇に包まれた。
停電が起きたのである。
それは破壊工作を仕掛けたテロリストによるものだった。
小さな映画館を経営しているヴァーロックが一枚噛んでいた。
ヴァーロックは、ロンドン市長就任パレードをねらい、ピカデリー・サーカスに時限爆弾を仕掛ける任務を負う。
彼の妻の年端もいかぬ弟(スティーブ)に、爆弾を仕掛けた荷物を持たせて使いに出す。
もちろん、妻もスティーブもヴァーロックの実体を知らない。
事情のわからないスティーブは、お祭り騒ぎのロンドンの街を荷物を抱えたまま楽しげに寄り道をくり返す。
そのうち約束の時間が迫っていることに気がついて、慌ててバスに乗り込み、渋滞途中でバスもろとも爆発する。

「サボタージュ」は英国時代のヒッチを代表する作品と言っても過言ではないのですが、ヒッチ本人はとても後悔の残る作品だと語っています。
その理由の一つとして、まだ年端もいかぬスティーブ(主人公の弟)を爆死させてしまうという設定は、非常に後味の悪いものだったからだそうです。
さらに、キャスティングのミスもあり、ヒッチとしては納得のいかない役者さんもあったようです。
そんな中、私個人としては、時代を越えたリアルな現代社会派サスペンスに仕上がっているので、多いに支持したい一作なのです。
ヒッチコックの生み出す映画で重要になるのは、「映像と編集のテクニックによって生み出される緊張やサスペンスであり、俳優の熱演ではない」のです。
そこをキーワードとしてヒッチ作品を再度鑑賞すると、「なるほど」とうなずかずにはいられません。

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2008年1月18日 (金)

二枚のドガの絵。

昨日から頭痛と寒気に襲われ、それでも今朝は這いつくばるようにして職場に出かけました。
職場で身の回りの簡単なお掃除をして、朝礼を右から左へと受け流し、パソコンの前に着席したとたん、目の前がぼんやりとして来たのです。
同僚から「さ、さんとう花さん、ものすごい顔色悪いよ!」と止めを刺され、それまで張り詰めていた気合いがプチッと切れて、わずか1時間で早退するはめに・・・。
帰宅後はこたつに入るやいなや布団も敷かずに昏々と眠り続けるのでした。
風邪なのか疲労なのか、あるいは花粉症なのか原因はわかりません。
ただ、目覚めた時に目に入ったのは、友人からいただいた信州の山並みを撮影した一枚の写真。それが妙に心地良くて、癒されて、おかげでDVDでも観ようかな、と気力が湧いたのです。

そんな中、刑事コロンボの「二枚のドガの絵」を観ました。
刑事コロンボと言うと、またずいぶん古いと思われるかもしれませんが、当時は放送日になるとサラリーマンの寄り道が極端に減り、飲み屋は閑古鳥が鳴くというエピソードがあるほどの高視聴率だったのです。

高価な絵画コレクターである叔父を持つ美術評論家のデイルは、名画を我が物にするため叔父を殺害する。
デイル愛しさから偽りの愛情とも知らず、美術学校の生徒であるトレイシーは彼の犯罪の片棒を担がされ、その後、彼女もまたデイルによって殺害される。
周到なアリバイ工作を練ったつもりでいたデイルだが、名刑事コロンボの前では、それも無駄な努力となる。

シリーズ中でも特に私の好きな「二枚のドガの絵」は、ヨレヨレ刑事であるはずのコロンボが一転、キラリと知的に光って見えるのです。
これは、観てもらえればすぐに気付くのですが、
「(盗むなら)バーンバウムより先に(金になる)グロウトをつかむでしょう?」
などと、さり気なく画家の名前を口にするのです。
しかも水彩画の話題が出た際には迷うことなく「マチス」の名前が出るのです。
この会話は、かなりの絵画ツウでなければ交わすことのできない内容で、そこにコロンボの見かけとはかけ離れたインテリジェンスな面影を感じ取ることができるのです。
さらに、この作品では「欲望という名の電車」にも出演していた名女優キム・ハンターが登場。
そうそうたる役者たちによる魅力的な一作なのです。
コロンボ=(イコール)ピーター・フォークと言っても過言ではないほど彼のイメージはピタリとはまっていました。
それはまるで、「男はつらいよ」の寅さんのイメージが渥美清とピタリと重なるように、その役柄を演じるためにこの世に生まれて来たような、運命的な出会いだったのです。

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2008年1月13日 (日)

日出処の天子。

「中性的」というのはある意味、魅惑的な言葉なのです。
いつだったか我が友人K美さんと二人で並んでいた時、公共施設の職員が彼女を中学生男子と間違えるというハプニングがありました。
さしあたり隣りにいた私は彼女の保護者(母親)とでも思われたのか?!
そう考えると、その日は一日ブルーになりました。
よりによって36歳独身女性二人のうち、一方は年相応に見られ、もう一方は十代の中学生に間違われるほど若く見られるなんて・・・。
何がどう間違っても納得のいくものではありませんでした。
ただ唯一、彼女にあって私にないものがあるとすれば・・・それは、「中性的」であるということでしょうか?

私は山岸凉子の「日出処の天子」を読みました。
この長編は、1980年代に少女マンガ雑誌「ララ」に連載された作品です。
現在は白泉社文庫より全7巻に渡って収録されています。
この作品が奇抜でミステリアスなムードをかもし出しているのは、何と言っても、主人公である厩戸王子(聖徳太子)が紅顔の美少年として、あくまで「中性的」に描写され、しかも女性を愛せない片端な人物として設定されていることからだと考えられます。
もちろん、ボーイズ・ラブというジャンルが一つのカテゴリとして確立されてしまっている昨今では、決して物珍しい類ではありません。
しかし、山岸ワールドが見せるマジックのすごいところは、ややもすれば敬遠されがちな血生臭い権力闘争劇を、もっと内面的でネガティブなところに焦点をあてた点です。
これは、梅原猛の著書である「隠された十字架」などを一読すれば明瞭なのですが、古代は「祟り」と「鎮魂」という霊的所作を背景とし、烈しく歴史が動いているため、単なる偉人伝として捉えるわけにはいかないのです。
したがって、実写では表現できない世界、つまり、霊的なものをマンガという手段を使って作品に反映することで、スケールの大きい歴史的テーマを完成させたわけです。

その昔、一万円札に厩戸王子が印刷されていたことを知らない世代には、とりわけ、飛鳥斑鳩が政治と文化の中心であった時代を知るとっかかりとして、「日出処の天子」は秀逸の作品なのです。

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2008年1月10日 (木)

ふたりはともだち。

あたたかな陽射しが、居間の奥まで射し込みます。
こたつで丸くなってぼんやりしていると、ホコリがゆらゆらと宙を舞っています。
年末にスタバで買ったマグカップを愛用。
インスタントコーヒーがことさら美味しく感じるのです。
マグカップのデザインは、雪の降る中、二人(恋人同士かあるいは友人か)が同じカップを手にするイラストなのですが、ひと目見て衝動買いしてしまいました。
イラスト中の人物たちは、同じカップを二人で共有できる距離にいて、おそらく向かい合っている、と思われます。
背景の山も静かに二人の成り行きを見守っているのです。
はらはらと舞う雪は、じんわりとあたたかな二人を包み込むようにして、一場の光景を完成させています。
クリスマス限定のマグらしく、赤地に緑色のスタバのロゴが、よく映えています。

私はアーノルド・ローベルの「ふたりはともだち」を読みました。
児童向けの絵本なのですが、とても優しい気持ちにさせてくれる作品です。
かえるくんとがまくんの仲良しが織り成す、日常の他愛もない一コマが物語りになっています。
著者のアーノルド・ローベルは、カリフォルニア州ロサンゼルス出身の絵本作家で、「ふたりはともだち」は米国図書協会主催の児童文学賞として権威のあるコルデコット賞(カルデコット賞とも表記される)の候補作品です。
翻訳を担当しているのは、芥川賞作家でもある三木卓先生です。
違和感のない、心地良く広がる春の穏やかな陽気のごとき名訳なのです。
私がとくにお気に入りなのは【おてがみ】という作品。

がまくんは一度もおてがみをもらったことがないので悲しくてしかたがない。
毎日欠かさず郵便受けをのぞいたところで、中はからっぽ。
がまくんは毎日がっかりして一日を終える。
それを聞いたともだちのかえるくんは、大急ぎでがまくんにおてがみを書く。
そして知り合いのかたつむりくんにがまくん宅へ届けてくれるようにお願いする。
かえるくんはがまくんのところへ行き、だれかがおてがみをくれるかもしれないから玄関先で待ってみよう、と提案する。
しかしがまくんは、だれも自分におてがみなどくれるわけがないと、あきらめモード。
そこでかえるくんは、「だって、ぼくがきみに てがみ だしたんだもの。」
と、告白。
がまくんはそれを聞いてうれしくなって、玄関先でおてがみが届くのを待つことに。
かえるくんとがまくんは、二人して長いこと待ち続ける。
4日後、やっとかたつむりくんが到着。
がまくんは初めてのおてがみに大喜びする。

大切な人と優しい気持ちを分かち合うのは、なんてステキなことなんでしょう!
にじむようなあたたかい感情に、時間も忘れて、ほっこりと浸かってみたいものです。

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2008年1月 3日 (木)

秋葉神社。

昨年は長野の善光寺に初詣。
さて今年はどちらへ詣でようか?
快晴にめぐまれた二日の午前中、私はいそいそと出かける準備をしました。
二輌編成の遠州鉄道を利用して終点西鹿島駅下車。
一日に数本しか運行していない秋葉神社行きのバスに乗り換えました。
車内は年配の方がちらほらと見受けられるだけで活気はなく、妙にバスの重いエンジン音が胃に響いてくるのでした。
玄関先にしめ飾りをつり下げた家も少なくなりつつある昨今、このあたりも例外ではなく、お正月ムードの希薄な街並みを滑るように通過。
途中のバス停でお客を拾うようすもなく、ひたすら前進して行きました。
気が付くとすっかり民家は消え失せ、天竜杉のうっそうと生い茂る山の奥へ奥へといざなわれ、まるで俗世間から遠ざかっていくような心境。
うねるようなカーブの連続なのに、手を伸ばせば届きそうな自然のパノラマに圧倒されて、しばし堪能。
やがて秋葉神社(下社)へ到着。
私は参道にもうけられた石の階段をゆっくりと登りつめました。
ここは秋葉大権現がお祀りされており、いわば「火防の神」を御祭神としているのです。

今から八年前の冬、隣家の火の不始末のせいで我が家はもらい火。両親の形見の品はほぼ全滅。幼いころのアルバム写真も消化剤でめちゃくちゃな状態になってしまいました。もしも毎年この秋葉山にお参りしていたら、あんな火事に見舞われることはなかったのでしょうか?
今さらそんなこと考えてみたところで仕方ないことなのですが・・・。
とは言っても幸い私はこの通り息をしているし、心臓も動いています。考えようによっては、あの火事が私のそれまでの厄をすべて焼き払ってくれたのかもしれません。

社殿の前に立った私は、しっかりとかしわ手を打ち、今年一年の無病息災をお願いしました。
自己実現のための地位や肩書きなどいらない。
高収入も望まない。
身の丈とバランスの取れる地道な生活を楽しんでいきたい。
つい忘れがちな感謝の気持ち、やさしい気持ちを持ち続けていきたい。
たった五円のお賽銭で欲張ってあれもこれもとお祈りしてしまいました。
申し訳なさから八百円の火防のお守りを購入。それから売店で秋葉名物てんぐまんじゅう(9ケ入り¥500)も。
これに免じてどうか一つ、神さま、見守っていてください(笑)

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2008年1月 2日 (水)

ギター弾きの恋。

人はそれを「うぬぼれ」だと言うかもしれません。
でも誰もが自分の秘めた才能を信じたいのです。
「天才」と呼ばれたいし、「さすが」だと賛辞を浴びたい。
もしも言ってくれる人がいないのなら、仕方がないから「自分で自分を褒める」しかないのです。
「自分を知る」という作業はかなり残酷で、困難で、もしかしたら自己破壊につながっていくかもしれません。そして気付いてしまったら最後、絶望の淵から真っ逆さまに落ちて、もう二度とは這い上がれないかもしれません。
しかし人間とは愚かな動物なので、「痛み」を覚えなければ真に大切なものは何なのか、まるでわからないのです。

私は「ギター弾きの恋」をDVDで観ました。
この作品は1999年にアメリカで公開されました。
監督・脚本は、コメディ作家でもあるウディ・アレンが手掛けています。ドキュメンタリー・タッチでストーリー展開していきますが、もちろん、フィクションです。
ジャズの天才ギタリスト役であり主人公のエメット・レイはショーン・ペンが演じ、アカデミー賞、ゴールデン・グローブ賞主演男優賞など総なめにしました。

端的に説明すると、1930年代のシカゴが舞台になっており、天才ギタリストであるエメット・レイと、洗濯屋で働く口のきけない女性ハッティ(サマンサ・モートン)との純愛を描いています。
出会いはエメットがハッティを海辺でナンパしたことから始まるのですが、ハッティの純情さと健気さとそして素朴さに徐々に惹かれていく、不埒で放蕩のエメットが変化していくようすに味わいがあります。
自分を天才だと信じて疑わないエメットですが、こと恋愛に関しては不器用で、真に大切なものを見誤ってしまい、ハッティと別れて上流階級の女性と結婚してしまうところから歯車は狂い始めます。

ショーン・ペンの完璧な演技力と、サマンサ・モートンのセリフなき演技が見事に融合し、哀切極まりないラストに目頭が熱くなりました。
ハッピーエンドの恋愛ドラマが飽和状態となった今こそ、「ギター弾きの恋」のような魂の叫びを映像から感じ取るのもオツなものです。

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2008年1月 1日 (火)

And a Happy New Year.

長らくブログの更新をお休みして来ました。
格好つけた言い方をすれば「充電していた」とでも表現するのでしょうか。
その実、書くことをさぼっていたに過ぎないのですが(笑)

両親が天に召されてからというもの、毎年、年の瀬に感じられる孤独感、絶望感。
仕事や雑事にまぎれて一時は忘れられるものの、はたと空虚な風に吹かれて我に返るのです。親戚や友人たちからの優しい言葉はかえって虚しさを増し、どうしようもない寂寥感に襲われるのでした。
自分の置かれた現状、ありのままをすんなりと受け入れるというのは、なかなかどうして難しいことです。
「こんなはずではなかった」という過去のトラウマや未練が台風のように巻き起こり、自分を凌駕するのです。
ではどうするのが最善策であるかと考えた時、私は楽しいこと、ワクワクするようなことをあれこれ想像しては自分を励ましてみました。
そんな自分のことも含めて誰もが平等にハッピーになるためには、「すべての物事がつじつまが合うもの」でなければならないし、この悲しい世界を生き抜くためには「嘘をいくつもついて」いかねばならないのかもしれません。
いろんなことを胸に秘めて、自分なりの生活を続けていたら、どうにかこうにか無事に年を越すことができました。
私のような者を力強く支えてくれる友人の叱咤激励にも多いに感謝。

平成二十年の年賀状には「何か」が起こりそうなことを予感して、次の一句を添えました。

木の芽や草の芽やこれからである(山頭火)

嬉しいことも悲しいことも、生きて身にあまる恩恵を授けられればこそなのです。
みなさん、本年もなにとぞよろしくお願い致します。
私、さんとう花はここにありきなのです(笑)

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