たまゆら
男性も女性も、それこそ人の数だけタイプがあり、それぞれに違うのでしょうが、私のような単純な思考回路の持ち主だと、おおざっぱに言ってしまえば男性は浮気をする生き物なのだ、と捉えています。
もちろん女性も、する人はするだろうし、男性だって、しない人はしないと思います。
でも、比率で言ったら圧倒的に男性の方が多いのではと考えるわけです。
きっとそれは生物的な問題であって、大したことではないとも思っています。
一般的に浮気というのは、他にちゃんと本命があってその上での火遊びのようなもの、と世間の女性は捉えているわけで、自分が本命という立場にあるならば、少しぐらいの浮気は大目に見てやろうという寛大さを、たいていの女性は持ち合わせていると思います。
(とはいえ年齢的に若いと、なかなかそうはいかないかも、、、)
ところが『たまゆら』を読むと、そういう単純な思考が音を立てて崩れてゆくのです。
既成概念に囚われていた自分が恥ずかしいのですが、もともと男性に浮気という概念のないタイプが存在するということを、今さら知ったからなのです。
裏を返せば、浮気もない代わりに本命もないのです。
じゃあ恋愛感情がないのかと言えば、まったくそうではなく、女性に対しては限りなく優しく、恋を囁くには余りあるスタイリッシュでクールなダンディ。
でも男性は「結婚にはあまり興味がない」と、予防線を張るのです。
そんな男性を好きになってしまった女性は、おいそれとあきらめもつかず、結局は先のことなどは考えず、何も約束せず、不幸の予感めいたものを抱きながらも付き合いを続けていくのです。
男性はそんな女性を愛おしむ一方で、親の勧める見合い相手とお義理でデートを重ねます。
そこに罪悪感はなく、どちらの女性にも誠意(?)を見せているというもの。
他にも、その男性に好意を持つ女性はいて、男性はその一人一人に優しく、無意識のうちに思わせぶりな態度なのです。
『たまゆら』の作中では、現代の光源氏的なその男性を、妙に完成度の高い男性に仕立てることで、反って読者に反感を仕向けているのがおもしろい。
そんなのは自由恋愛という幻想の上に成り立つものであり、不毛な恋愛地帯であるに過ぎません。
このような男性を「この上もなく利己的で、この上もなく高慢な人間に違いない」と批判できる女性は少なく、たいていの女性はそのタイプの男性を限りなく誤解し、受け入れてしまうので、もうどうしようもありません。
『たまゆら』では、その手の男性に熱をあげてしまい、でもその気持ちを振り切ろうと別の男性と結婚までするものの、やはり思慕を捨て切れずに精神を病んでしまう女性が登場します。
このような絶望的な状況となっても、当事者である男性は「優しく」その女性の想いを拒絶します。
罪悪感など微塵もありません。
曽野綾子の『たまゆら』は、1959年に上梓された作品なので、すでに50年以上の月日が経っています。
それなのに今読んでもまったく時代性を感じさせず、むしろ新しい感じがします。
私の身近なところでは、作中にあるような束縛のない自由な交渉を良しとする男性はいません。(ホンネは分かりませんが、、、)
しかし、もしもご主人やカレの浮気で悩んでいる友人がいたら、この小説を読むように勧めてやりたいと思うのです。
「あくまで本命はあなたなのだから、そんな浮気なんて気にしなさんな」
と、言ってやるのです。
求めても受け入れず、こちらの心を「優しく拒絶する」自由恋愛よりは、浮気の方が数倍も人間的で可能性のある感情なのですから!
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