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2014年10月25日 (土)

きなこ棒

今は亡き明治生まれのおばあちゃんのお宅へ遊びに行くと、おやつに出されるのは、かりんとうだったり羊羹だったり、あるいは干し芋でした。
私は子どもながらに、「おばあちゃんは年寄りだから、ケーキやプリンなんかは食べないんだな」と思いました。
ある意味、仕方のないことなのだと思っていました。

人間というのは大人になるにつれ、思考が成長し、それまでとんがっていた人なんかは「丸くなったね」などと言われたりもしますが、味覚も変わるものなのですね。
いつのころからか、妙におばあちゃんちで食べさせてもらったおやつがおいしく感じるようになったのです。
もちろん、ケーキなどの洋菓子だって大好きです。
けれど、小さいころ近所の駄菓子屋で買った素朴な味が、今の年齢になって「おいしい」と感じるようになったのは、不思議なことです。
「なつかしいなぁ」と思って食べることは、これまでも何度かあったのですよ。
それが、「おいしいなぁ」と感じるまでになった自分は、やっぱり年を取ったという証拠かもしれませんね、、、
若い人でも、ヘルシー嗜好でわざと和菓子を好む方もおられると思いますが、私の世代がほっこりするような感覚でいただくのとは、ちょっと違うような気もします。

近所のスーパーで買って来たのは“きなこ棒”です。
きな粉と黒蜜を練り込んだだけの、素朴な風味なのですが、これがまたおいしいのです。
ちょっと何かつまみたいなぁと思った時、このきなこ棒をお茶といっしょにいくつか食べるとお腹が膨れて満足します。
カロリーも高くないし、私みたいに悪玉コレステロール値を気にされている女性の方々におすすめです。

パッケージに「保存料や着色料など一切使用していない」という一文が印刷されているのが嬉しい。
安心して食べられる駄菓子なのです。
ちなみにこのお菓子を製造しているのは、東京都荒川区にある鈴ノ屋さんという会社です。
他にもきっときなこ棒を作っている会社はあると思いますが、私が近所のスーパーで必ず買うのは、鈴ノ屋さんのきなこ棒です。
一袋に10本入で、¥108だったと思います。
こんなにリーズナブルな価格でおいしい駄菓子を提供してくれてありがとう!と、この場をお借りして御礼申し上げます。

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2014年10月19日 (日)

着信あり

今日もまたケータイに着信があり、なんとなく不安を煽られています。
というのも、私は特定の友人とのメールしかやらないし、ましてやケータイで話すのは限られた友人とだけだからです。
なので、電話番号が未登録の着信に関しては、一切応じません。
(非通知設定の電話なんて、論外です。)

忘れもしない9月25日の朝、7時30分。
出勤前の、一番慌ただしい時間帯です。
見知らぬ番号を通知した私のケータイが、31秒間コール音を鳴らし続けました。

「だれだろう? 職場の同僚ならメールで連絡してよこすはずなのに、、、」

出ようかどうしようか迷ったあげく、やはり用心のために応じるのは控えました。
出勤後、念のため、同僚に私のケータイに電話したかどうかを尋ねると、

「デンワ? しないしない。 よっぽどのことがない限り、きほんメールで済ます方だから」

とのこと。
当然だと思いました。
緊急の用事がない限り、朝7時30分にかけてくる電話なんて、ちょっとイレギュラーすぎます。
とはいえ、かけて来た相手の用件も分からないし、間違い電話かもしれないし、何となくスッキリせずにいました。

それからすっかりその不審電話について忘れていたのですが、つい先日10月14日、再びかかって来ました。
以下、着信があったのは次のとおりです。

10月14日 20:37
10月15日 10:20
10月16日 10:03
10月19日 13:45
10月19日 13:46
10月19日 13:47
10月19日 13:48
10月19日 14:04

この着信履歴を見て驚くのは、今日(10月19日)に限って5回もケータイにかけて来ているところです。
一体どんな用事があると言うのでしょうか?
もしも、「お宅のご両親が事故に遭ってたいへんです!」
などと言おうものなら、
「うちの両親はとっくに死んでます!」
と言い返してやります。
あるいは、「お宅のご主人が、うちの娘をはらませましてね、、、」
などと言って来たら、
「とっくに離婚してますけど」
と、言ってやります。

いろんな妄想が頭の中をグルグルと回っているのですが、気になって仕方がありません。

にもかかわらず、臆病な私は、この顔の見えない不審な電話に応じることはできないのです。
ちなみにこの不審電話の番号は、、、090-2947-××××です。

嗚呼、怖い!

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2014年10月16日 (木)

室井佑月さんトークショー

ドラッグストアというのは本当にありがたいものです。
お薬はもちろんのこと、日用品から雑貨、飲料水に食品、冷食まで、ありとあらゆるものが売られているのですから。
コンビニも便利だとは思うのですが、ふだんの利用頻度から言ったら圧倒的にドラッグストアなのです。

私が度々お世話になっているのは、職場の近くにある杏林堂です。
静岡県西部地域では、おそらく知らない人はいないほどの知名度を誇る、大手ドラッグストアなのです。
その杏林堂でいただいたチラシに、『室井佑月さんトークショー』の招待券プレゼントの応募要項が載っていたので、ダメ元で応募してみたのです。
日時は10月14日(火)、会場はアクトシティ浜松[中]ホール。
どうか当たりますようにとお祈りしていたのですが、なかなか当選通知が届かなかったので、半ばあきらめていました。
ところが今月に入って、すでにそのことを忘れていたころ、当選通知が届いたのです。
私はもう嬉しくてたまらず、さっそく職場に有給休暇届を出しました。

心配された台風19号の影響もなく、当日は快晴で、仕事上で仲良くなった知人を誘い、アクトシティまでいそいそと出向きました。

室井佑月と言えば、数々のテレビ番組でコメンテーターとして引っ張りだこの人物です。
(金スマではレギュラー出演されている。)
もともとはミス栃木やレースクィーンとして、その容姿やスタイルを買われて表舞台に立つようになったようですが、作家としても活躍されており、そのマルチな才能はとくに同性からの支持を多数集めているとのこと。

トークショーのテーマは、「女らしさ 男らしさ」というものでしたが、室井佑月らしく話題があちこちに飛んでいて、だけどストレートな物言いに好感が持てました。
個人的に興味を持った話題がいくつかあったので、ここにご紹介しておきます。

(1)これからの女の子、男の子に必要なものは何か、という司会者の問いに、室井佑月が答えたのは、「女の子には強さであり、男の子には優しさが必要だ」とのこと。
この場合の強さというのは、力の強さを言うのではなく、「雑草のように」したたかに生きる強さが必要だと言っていました。
私なりに解釈したのですが、つまりはメンタル面の強い女の子の奨励でしょうか。
また、男の子には相手を思いやれる優しさが必要であり、これまでのような“オレについて来い!”的なガツガツした自尊心は、二の次ということでしょうか。

(2)子どもに親として何を残してやれるのかを考えた時、お金や物質的なものより、知識とか教養を身につけさせてやりたいと思い、塾やお稽古ごとを小学4年生のころから息子にやらせているのだと。
つまり、お金はパーッと使ってしまえば終わりだけれど、知識や教養は一生ついて回るものだから、職業の選択肢が広がるということでしょうか。

(3)ささいなことでも「私って幸せだな」と思えることが大切だと。
とくに女性は日常生活の中で、ほんのちょっとしたことに幸せを感じられるもの。
大事に育てて来た庭の花が咲いたことで、小さな幸せを感じられるのも女性ならでは。
男性も、そういう小さな幸せを感じて欲しい、、、というようなことを言っていました。

正直なところ、トークの内容は至ってありふれたものでした。
それでも、テレビの画面でしか見たことのない著名人が、同じ空間で、手を伸ばせば届きそうなところでつらつらと話しているのを見るだけでも感動でした。

会場に来ていたお客さんの年齢層が高く、子育ての話はちょっと不向きだったかもしれません。
銀座のクラブホステスをされていた経験があるとのことだったので、ホステス時代の話に的をしぼって男女のあれやこれやを語ってくれたら、もっと盛り上がったかもしれません。

トークショーが終わると、プレゼントの抽選がありましたが、私はぜ~んぜん当たりませんでした。
でも帰りにライオンの製品のお土産をいただいたのは、とても嬉しかったです!

杏林堂さん、つかの間の楽しいひとときを、どうもありがとうございました!

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2014年10月10日 (金)

パッション

これまで映画の感想は楽天ブログの方にアップして来たのですが、いっしょに管理している友人の都合で、しばらくの間、更新を停止しています。
こちらのさんとう花としてのブログは、私個人が月に何度か気の向くままに更新していますので、今回は映画の感想ですが、こちらで記事をアップしたいと思います。

◆楽天ブログにおいては、吟遊映人というHNを使用しまして、映画感想・読書案内・信州の何気ない風景・新聞の気になる記事・詩歌・俳句などを取り上げて参りました。
私は主に映画感想や読書案内の記事のみを担当していまして、その他ほとんどすべて(ブログの管理運営含む)を友人が手を尽してくれておりましたので、残念ながら私が引き継ぐことが難しいのです、、、
そんなわけで、今後はしばらくの間、私のつたない記事をさんとう花日記のみでアップさせていただきます。
今後ともよろしくお願いします<m(__)m>

さて、最近の私はiTunesストアで様々な映画をレンタルし、家に居ながらにして鑑賞するという画期的なスタイルに、悦に入っています。
こないだレンタルしたのは、リーアム・ニーソン主演のスリラー映画『ザ・グレイ』です。
これは寒い冬の夜などに見たら気が滅入ってしまうところですが、真夏の暑気払いには持って来いの作品でした。
その前はレオナルド・ディカプリオ主演の『シャッターアイランド』で、これも心理的には漠然とした不安を感じさせるものでした。
躁状態の自分を一気に冷却させたい時などには一見の価値がありそうです。
が、そうは言ってもどちらも好みの問題と言えそうです(笑)

今回も私好みのスリラー映画で、『パッション』をレンタルしてみました。
さすがはブライアン・デ・パルマ監督の作品だけあって、最後まで飽きさせない内容となっています。
徹頭徹尾、無言のストレスをかけられているような気になり、メンタルが歪んでしまいそうな錯覚さえします。
とはいえ、ウィキペディアによれば『パッション』は、フランス映画『ラブ・クライム偽りの愛に溺れて』のリメイク版とのこと。
私はまだ未見ですが、タイトルからしてオリジナル版もさぞや官能的で残酷なものなのでしょう。
『パッション』のストーリーは次のとおり。

広告代理店のベルリン支社で重役を務めるクリスティーンは、ニューヨーク本社への栄転を望んでいた。
新作スマートフォンの広告を手掛けることになり、クリスティーンのアシスタントであるイザベルは、画期的なプロモーション・ビデオを制作した。
クリスティーンは野心家で、イザベルのアイデアを横取りしてしまうのだが、一方でイザベルはクリスティーンの恋人であるダークと肉体的な関係を結ぶ。
だが、したたかなクリスティーンは、会社の金を使い込んでいるダークに揺さぶりをかけ、利用し、挙句の果てに見捨てる。
バックボーンを失ったダークは、イザベルとも冷静ではいられなくなり、別れ話を切り出す。
絶望的なダークに同情したイザベルは、改めてクリスティーンの冷酷で非情な本性を知る。
イザベルは何とかしてクリスティーンを出し抜きたいと、自分の提案したアイデアを逸早くネットの動画サイトを利用し、公開することで、世界中から反響を呼ぶのだった。

『パッション』の怖さは、女性の怖さでもあります。
タイプのまったく違う二人の女性が、同じ仕事を手掛け、恋人を共有し、野心と欲望にまみれ、どうしようもない憎悪から逃れられず殺意が芽生え、完全犯罪を企てるのですが、とにかく女性の存在感だけが際立つ作品です。
もちろん、男性も登場するのですが、お刺身のツマみたいな役割にも似て、この作品ではあまり重視されていないように思えます。

ポスト・ヒッチコックとも称されるデ・パルマ監督の作品に、ハズレなどあろうはずもありません。
スリラー映画ファンには必見の作品です。
女性同士のエロスにはいささか閉口ですが、甘美で官能的な世界観は、視聴者を惹きつけてやみません。
この作品は、むき出しの女性があれよあれよと冷静さを失っていくプロセスに、慄然とするのです。

2013年公開
【監督】ブライアン・デ・パルマ
【出演】レイチェル・マクアダムス、ノオミ・ラパス

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2014年10月 5日 (日)

ありふれた老い

今年は私の親しい友人たちのお父上が、次々と亡くなられました。
仕方のないこととは分かっていながらも、寂しさとか悲しさというものは、簡単に拭えるものではありません。
自分自身の過去の記憶が嫌でもよみがえるせいなのか、そこはかとない喪失感に襲われます。
あの時、私はこうすれば良かった、ああすれば良かったと、思うことはたくさんあるのですが、すべては「後悔先に立たず」なのです。
今となってはどうすることもできません。
変更の効かない過去が、情け容赦なく、ぬえのように横たわるに過ぎません。

最近の読書の傾向は、意識しているわけでもないのですが、介護記録のような作品を読むことが多いのです。
それにしてもその内容は、ほとんどが壮絶な闘病記で、一読者として読後はもうヘトヘトになってしまうものもあります。
そんな中、唯一安心して読める介護記録があります。
それは他でもない、松下竜一の『ありふれた老い』です。

松下竜一といえば、私の大好きな社会派ノンフィクション作家で、代表作に『ルイズ 父に貰いし名は』『砦に拠る』『豆腐屋の四季』などがあります。
その松下竜一の父親(85歳)が、ある日突然倒れることで、老人問題の幕開けとなるのです。
この時、著者は54歳、妻・洋子は43歳、中学生の杏子、長男・健一は社会人で熊本に在住、二男・歓は福山市の大学生です。

著者の母親は若くして亡くなっていたため、高齢の父親の面倒をみるのは長男である竜一とその妻の務めです。
なので、寝たきりとなった老父に対し、少しも慌てず、自然のなりゆきとして介護生活に突入していきます。
しかも在宅介護という手段を選択するのです。
もちろん、下の世話やら入浴の介助などは決してキレイゴトではありません。
七転八倒の世界です。
ハンデなのは、著者自身が多発性肺のう胞症という厄介な持病を抱えていて、階段の上り下りは言うまでもなく、布団の上げ下ろしでさえ暫くは呼吸を整えねばならないほど喘いでしまうのです。
だから、身体の自由の利かない老父を動かす時などは大変。
その度に著者は肩で息をして、あげくに咳き込んでしまうというありさま。
妻と二人がかりでやったとしても同じ状況だったというので、それはそれは大変なご苦労だったことと思います。

とはいえ、ここまでの様子はどちらの家庭にもおおよそありがちな介護風景だと思うのです。
スゴイと思うのは、夫婦が共倒れにならないために、あるいは家族が一丸となって介護に向き合っていくために、結婚記念日を中心に夫婦で二泊三日の旅行に出かけていることです。
じゃあその間、老父の面倒は誰がみるのかと言えば、中学生の娘・杏子がおじいちゃんの隣の部屋に寝て、気を配るようにしているのです!

ほのぼのと感じるのは、孫が寝ているおじいちゃんに修学旅行の話をすると、財布から三千円持って行けと言うのです。
きっと小遣いにしろと言うことでしょう。
孫は、おじいちゃんの財布をあけてみると中身はからっぽ。
でも、そういうおじいちゃんの気持ちが嬉しくて、「ありがとう」とお礼を言うのです。
このくだりは、何となく心あたたまるのです。

お年寄りは、というより誰もが同じ気持ちだとは思いますが、住み慣れた我が家が一番良いのです。
死を待つだけのような、冷たく無機質な病院や、右を向いても左を向いても老人ばかりの施設になどは住みたくないのです。
ところが現実には、どの家庭でも在宅介護が可能な環境にあるわけではなく、松下竜一自身も、夫婦共倒れの危機を感じ、結局、ショートステイの利用に踏み切ります。

様々な葛藤や思いの中で日々をすごしていくわけですが、自分の置かれた状況をどこまでも前向きに捉えることは有意義なことです。
作中、著者は自身の父親が「おれたちのために病気になってくれたんじゃないか」と述べています。
父親は、居るのか居ないのかわからないような存在で、いつもひっそりと静かな人柄だったと。
だから日常生活では構わずにほうっておけば良かった。

『だが、もしこんな淡々とした関係のまま父が亡くなってゆくのであれば、やはり私たちには悔いが残っただろう。(中略)そんなふうに私たちをあとで後悔させないために、「どれ、最後に少しばかり面倒をみさせてやることにするか」と思い立って、父は足腰の立たぬ病気にかかってくれたような気がしてならない。』

介護というものを、こんなふうに優しい気持ちで捉えることができたのは、何故でしょうか?
いろんな考え方があるとは思いますが、結局のところ、介護する立場にある人の心構えなのかもしれません。

松下竜一は、「家族が追いつめられるほどに難しいケースではなく、どこの家庭にも起こりうるごくありふれたケースの一つ」であると言っていますが、それだからこそ共鳴もでき、納得のいく内容となっているのでしょう。

様々な著名人が介護に関する著書を発表されていますが、もしもどれか一冊おすすめするとしたら、私は迷わず松下竜一の『ありふれた老い』をあげさせて頂きます。
平凡なる庶民の、平凡なる日常の風景なのです。

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2014年10月 1日 (水)

淋しいアメリカ人

開国以来、日本は西洋に追いつけ追い越せで、死にもの狂いで頑張って来ました。
とくに戦後はアメリカのバックアップもあって、良くも悪くもアメリカの影響をまともに受けているようです。
それは庶民レベルの最も一般的な大衆にジワジワと吸収しつつあるもので、日本人がことさら意識するまでもないことかもしれません。

『淋しいアメリカ人』は桐島洋子によって書かれたルポルタージュで、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
昭和46年の著書なので、すでに43年も前の作品です。
それなのに大して時代性も感じることなく、かえって現代においては“淋しい日本人”と置き換えても全く問題ないように思えてしまうのが恐ろしいぐらいです。

桐島洋子のあとがきを読むと、「アメリカで流行るものは必ず日本でも流行る、アメリカを見たらそれを数年後の日本と思え」とありますが、それは言われるまでもなく、周知のとおり。
つまり、アメリカの諸症状が、そのまま「日本人自身の未来図」であるというものです。
ところが話はそこで終わらず、「日本人はアメリカに慣れ親しんだあまり、その手近な一面だけであっさりアメリカを理解した気になって、アメリカの途方もない容積というものを甘く見過ぎているように思われる」とあります。
うむ、なるほどと思いました。
確かにそれは感じます。
例えば、“自由の国アメリカ”というキャッチ・コピーだけを捉えても、日本人の感覚から言えば、伸び伸びとしたイメージを受けるし、明るく前向きな雰囲気が漂います。
ところが桐島洋子は、アメリカでの“自由”について、次のように述べています。

「かつてアメリカにあった自由は、日本では考えられない種類の烈しい自由だった。それは巨億の富を独占する自由であると同時に、行き倒れて飢死する自由でもあった。徹底した自由が、人間の強弱や運不運の隔差をあまりにも大きくし過ぎることはみるみる明らか」

になったとあるのです。
これって、“格差社会”で問題となっている今の日本にも当てはまりはしないだろうか?
とはいえ、もともと“自由”の伝統が異なる日本に、「見境いなく直訳直輸入したらおかしなことになる」と、著者は警鐘を鳴らしています。
ヤバイなぁ、、、と思ったところで後の祭り。
日本人には違和感きわまりない西洋の“自由”について、改めて認識を変えていくしかないでしょう。

一方、人種差別問題についても触れていますが、おおざっぱに言ってしまえば、白人と黒人とのいざこざ(?)です。
これは日本にも少なからずある問題なので、他人事ではありません。(在日、同和問題など)
桐島洋子は、当時としては前衛的で、社会常識にこだわらない“とんでる女性”の代名詞でもありました。
実際、結婚もせずに外国人との間に生まれた子どもを3人も出産しており、不道徳とか不体裁など、そんなものに囚われたりしない進歩的な女性でした。
そんな著者が、黒人に対しては、意外にも違和感を抱いています。

「彼等はあまりに異人種なのである。生活を共にしてうまくいくことは絶望的に思われるし、仕事の相手としてさえテンポがちがいすぎるように思う」

さらにはこんなことも言っています。

「私には黒人と結婚したり黒い赤ん坊を生んだりする勇気はない」

桐島洋子のスゴイのは、決してキレイゴトを並べるのではなく、「残念ながら私もまた人種偏見の持主である」と、素直に認めている点です。
考えてみれば、異なる文化・伝統を持つ国の人々を理解しようと努力するにしても、限界があるからです。
大多数の白人が黒人との融合をのぞんではいないと言ったところで、だれがそれを批難する権利があるでしょう?
著者が言うように、「人間の理性だけではどうしようもないものがそこにはある」のです。
それはもう、個々の分別と理知を持って対応していくしかないかもしれません。

桐島洋子が、夫婦交換パーティに潜入したり、アングラ新聞(日本でいう東スポみたいなもの?)に三行広告を載せたりすることで、性の自由や希薄な個人主義の実態が、赤裸々に取材されています。
これを読むと、徐々に合理主義と消費文明に侵食されつつある日本にとっても、決して他人事ではないように思われるのです。
『淋しいアメリカ人』は、今を生きる日本人にもそのまま当てはまるのではないかと、空恐ろしく感じてしまいました。

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