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2014年10月 1日 (水)

淋しいアメリカ人

開国以来、日本は西洋に追いつけ追い越せで、死にもの狂いで頑張って来ました。
とくに戦後はアメリカのバックアップもあって、良くも悪くもアメリカの影響をまともに受けているようです。
それは庶民レベルの最も一般的な大衆にジワジワと吸収しつつあるもので、日本人がことさら意識するまでもないことかもしれません。

『淋しいアメリカ人』は桐島洋子によって書かれたルポルタージュで、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
昭和46年の著書なので、すでに43年も前の作品です。
それなのに大して時代性も感じることなく、かえって現代においては“淋しい日本人”と置き換えても全く問題ないように思えてしまうのが恐ろしいぐらいです。

桐島洋子のあとがきを読むと、「アメリカで流行るものは必ず日本でも流行る、アメリカを見たらそれを数年後の日本と思え」とありますが、それは言われるまでもなく、周知のとおり。
つまり、アメリカの諸症状が、そのまま「日本人自身の未来図」であるというものです。
ところが話はそこで終わらず、「日本人はアメリカに慣れ親しんだあまり、その手近な一面だけであっさりアメリカを理解した気になって、アメリカの途方もない容積というものを甘く見過ぎているように思われる」とあります。
うむ、なるほどと思いました。
確かにそれは感じます。
例えば、“自由の国アメリカ”というキャッチ・コピーだけを捉えても、日本人の感覚から言えば、伸び伸びとしたイメージを受けるし、明るく前向きな雰囲気が漂います。
ところが桐島洋子は、アメリカでの“自由”について、次のように述べています。

「かつてアメリカにあった自由は、日本では考えられない種類の烈しい自由だった。それは巨億の富を独占する自由であると同時に、行き倒れて飢死する自由でもあった。徹底した自由が、人間の強弱や運不運の隔差をあまりにも大きくし過ぎることはみるみる明らか」

になったとあるのです。
これって、“格差社会”で問題となっている今の日本にも当てはまりはしないだろうか?
とはいえ、もともと“自由”の伝統が異なる日本に、「見境いなく直訳直輸入したらおかしなことになる」と、著者は警鐘を鳴らしています。
ヤバイなぁ、、、と思ったところで後の祭り。
日本人には違和感きわまりない西洋の“自由”について、改めて認識を変えていくしかないでしょう。

一方、人種差別問題についても触れていますが、おおざっぱに言ってしまえば、白人と黒人とのいざこざ(?)です。
これは日本にも少なからずある問題なので、他人事ではありません。(在日、同和問題など)
桐島洋子は、当時としては前衛的で、社会常識にこだわらない“とんでる女性”の代名詞でもありました。
実際、結婚もせずに外国人との間に生まれた子どもを3人も出産しており、不道徳とか不体裁など、そんなものに囚われたりしない進歩的な女性でした。
そんな著者が、黒人に対しては、意外にも違和感を抱いています。

「彼等はあまりに異人種なのである。生活を共にしてうまくいくことは絶望的に思われるし、仕事の相手としてさえテンポがちがいすぎるように思う」

さらにはこんなことも言っています。

「私には黒人と結婚したり黒い赤ん坊を生んだりする勇気はない」

桐島洋子のスゴイのは、決してキレイゴトを並べるのではなく、「残念ながら私もまた人種偏見の持主である」と、素直に認めている点です。
考えてみれば、異なる文化・伝統を持つ国の人々を理解しようと努力するにしても、限界があるからです。
大多数の白人が黒人との融合をのぞんではいないと言ったところで、だれがそれを批難する権利があるでしょう?
著者が言うように、「人間の理性だけではどうしようもないものがそこにはある」のです。
それはもう、個々の分別と理知を持って対応していくしかないかもしれません。

桐島洋子が、夫婦交換パーティに潜入したり、アングラ新聞(日本でいう東スポみたいなもの?)に三行広告を載せたりすることで、性の自由や希薄な個人主義の実態が、赤裸々に取材されています。
これを読むと、徐々に合理主義と消費文明に侵食されつつある日本にとっても、決して他人事ではないように思われるのです。
『淋しいアメリカ人』は、今を生きる日本人にもそのまま当てはまるのではないかと、空恐ろしく感じてしまいました。

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