2014年9月22日 (月)

夜叉御前

ドラマや小説の世界では取り上げられるプロットですが、実際にはあり得ないことだと思っていました。
倫理的にということももちろんですが、遺伝学的にも悪影響を及ぼすので、決してあってはならないことだと受け止めています。

そう、近親相姦というタブーです。

そうは言っても、よもやそんな禁忌が行われているはずもないと思い、検索をかけてみると、、、あるはあるは、次から次へと。
世界中のいたるところで(無論、日本国内においても)そのタブーは破られているのです。

私は、山岸凉子の作品が大好きで、十代のころから愛読しています。
『花とゆめ』とか『ララ』などで山岸凉子のマンガが掲載されているのを知ると、その月だけ買ってみたり、とにかくませた小・中学生でした。
その山岸凉子の作品集が、20年近く前に発売され、当然のように私は買い求めました。
その一冊に『夜叉御前』があります。
これは、文春文庫ビジュアル版として出版されたものですが、今でも取扱いはあるのでしょうか?
最近、書店で見かけることはありませんが、自選作品集と謳っているだけあり、秀逸です。

十代のころ、ませていた方の私ですが、『夜叉御前』の本当の意味が分かりませんでした。
しかし、今ならはっきりと認識できます。
これこそまさに、近親相姦を扱った作品なのです。

◆ここからは作品のテーマにも触れますので、内容を明かします。

とある山深い一軒家に、15歳の少女とその家族が引っ越してきた。
少女の母は腎臓が悪く、寝たきり状態。
父方の祖母も体が弱く、しかも耳が遠い。
少女には年の離れた弟妹がいるので、家事一切をこなさなくてはならなかった。
少女は夜ごと、般若の面をかぶった女から、じっと見られている妄想にとり憑かれている。
それはもしかしたら、古い旧家の木造建築に住んでいるからという環境もあるかもしれない。
とにかく少女は、心細さから、不安と恐怖におののいていた。
そんな中、少女は食欲を失っていった。
吐き気をもよおし、耐えられず、戻してしまう。
少女は自分をつけ狙う般若に、殺されるかもしれないと常に不安を抱くが、ある晩、寝ていると、黒い物体が覆いかぶさって来た。
少女はその黒い物体を押し退けようとするが、その抵抗も虚しく、どうすることもできない。
そんな少女の様子を、般若は押入れの中からじっと見つめている。
それからは毎晩、少女が寝ていると黒い物体が覆いかぶさるようになったのだ。

上記は概略ですが、マンガを読んで頂くと、その恐怖たるや鳥肌モノです。
夜ごと覆いかぶさって来た黒い物体の正体は、間違いなく少女の父親なのです。
さらに、少女を恐怖のどん底に陥れるような般若は、正に、病身の母に違いありません。
とんでもない禁忌を破ったことに対する夫への恨みつらみから、ラストでは斧で殺害してしまい、娘に対しても異常な嫉妬に駆られ、殺そうとします。

作中、少女と父親が実の親子であるのかどうかは触れていません。
イマジネーションを働かせれば、あるいは母の前夫と間に生まれたのが15歳の少女で、年の離れた弟妹が現在の父親との間に生まれた子ども、ということも考えられます。
実父であろうが養父であろうが、15歳の少女に行った仕打ちは人間としてあるまじき行為であり、殺害されてしまうというラストも当然の帰結かもしれません。
しかし、哀しい哉、女という性は、我が子であっても嫉妬の対象であり、憎しみと憤りで鬼にもなり得るという意味でしょうか。
いずれにしても、近親相姦の末路にあるのは、絶望以外の何物でもないことがこの作品から分かります。

人は皆、それぞれに他人には言えないような醜いヘドロのようなものを胸に秘めて、日常をやり過ごしているのです。
この潜在的に隠されている狂気が目覚めた時、自らを失ってしまうことは間違いありません。
私たちは常に、理性と秩序を保ち、生きていかねばならないのです。
山岸凉子の『夜叉御前』は、人間の持つ底知れぬ怖さと狂気を、とてもよく現した作品なのです。

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2014年5月24日 (土)

聖☆おにいさん10巻発売!

数年前、短大時代からの友人であるYさんから、「これ、おもしろいよ」と借りたのが『聖☆おにいさん』なのです。
私は読書も好きですが、マンガも大好きで、気に入ると登場人物のセリフまで覚えてしまいます。(もちろん、お気に入りの名場面だけであって、最初から最後までそらんじるわけではありませんが。)

『聖☆おにいさん』の何がどうそんなに気に入ったのか、改めて分析(?)してみたのですが、まずは平和なストーリー展開であることでしょうか。
ドギツイ性描写や、バイオレンスシーンは皆無で、安心して読めることが第一です。
さらには、主要登場人物がイエス・キリストとブッダ(お釈迦様)であることです。
これはなにも、神や仏をちゃかしているわけではなく、もしも二人が仲良しで、この下界に舞い降りたなら、こんな生活ぶりではないだろうか、というファンタジーに溢れた内容となっているのです。

『聖☆おにいさん』は、“月刊モーニングtwo”で連載されています。
著者は中村光・30歳(女性)で、静岡県田方郡中伊豆町出身の漫画家です。
ウィキペディアによると、美人の誉れが高く、作品であるマンガのファンより、中村光ご本人のファンが多いとのことです。
その中村光の描くイエスもブッダも、それはもう瑞々しく、新鮮なキャラクターとして圧倒的な存在感を誇っています。
これにはさすがの手塚治虫も、正統派伝記漫画『ブッダ』を世に出した作家とはいえ、舌を巻くことでしょう。(笑)

作品は、仏教の祖・ブッダと、神の子・イエスが下界でバカンスを楽しむために、東京は立川市のアパートで暮らすことになった、という導入です。
二人の特徴は、「ダジャレやお笑いをこよなく愛し、新しいモノ好きな浪費家イエス」と「自分とお金に厳しく」モノ作りの好きなブッダというキャラ。
このマンガはストーリーを楽しむものではなく、愛すべき登場人物のユニークさ、おもしろさを味わうと言った方が良いかもしれません。
さらには、イエスとブッダという二人のおにいさんコンビを取り巻くミラクルなお話、というコンセプトが良い。

だいたい、いにしえの偉人が登場する時点で、シリアス系の、ヘタすれば宗教色の強い学習漫画になってしまうのがオチだと思うのですが、なかなかどうして、『聖☆おにいさん』はあくまでコメディ・マンガである分をわきまえているのですから!

とはいえ、著者の中村光は、キリスト教にしろ仏教にしろ、かなり力を入れてリサーチしているはずです。
これはマンガを読んでいて実感するのですが、宗教上の知識はそうとう持ち合わせているのではと推測されます。
私のようなにわか読者が四の五の言うのも何ですから、ぜひとも本屋さんで立ち読みを、、、とおすすめしたいところなのですが、今どきのマンガは全てビニールをかけられていて、中身を閲覧できない状態になっています。残念!
興味のある方は、“月刊モーニングtwo”で連載中ですので、どんなものかちょこっとだけご覧になってみては?

現在、『聖☆おにいさん』は5月23日に新刊10巻が発売されました。
私なんか、その日、有給休暇を取って書店に出向きましたよ!(笑)
生活にささやかな笑いが欲しいと、密かに望んでいる女性の皆さんにおすすめですよ。

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2008年1月13日 (日)

日出処の天子。

「中性的」というのはある意味、魅惑的な言葉なのです。
いつだったか我が友人K美さんと二人で並んでいた時、公共施設の職員が彼女を中学生男子と間違えるというハプニングがありました。
さしあたり隣りにいた私は彼女の保護者(母親)とでも思われたのか?!
そう考えると、その日は一日ブルーになりました。
よりによって36歳独身女性二人のうち、一方は年相応に見られ、もう一方は十代の中学生に間違われるほど若く見られるなんて・・・。
何がどう間違っても納得のいくものではありませんでした。
ただ唯一、彼女にあって私にないものがあるとすれば・・・それは、「中性的」であるということでしょうか?

私は山岸凉子の「日出処の天子」を読みました。
この長編は、1980年代に少女マンガ雑誌「ララ」に連載された作品です。
現在は白泉社文庫より全7巻に渡って収録されています。
この作品が奇抜でミステリアスなムードをかもし出しているのは、何と言っても、主人公である厩戸王子(聖徳太子)が紅顔の美少年として、あくまで「中性的」に描写され、しかも女性を愛せない片端な人物として設定されていることからだと考えられます。
もちろん、ボーイズ・ラブというジャンルが一つのカテゴリとして確立されてしまっている昨今では、決して物珍しい類ではありません。
しかし、山岸ワールドが見せるマジックのすごいところは、ややもすれば敬遠されがちな血生臭い権力闘争劇を、もっと内面的でネガティブなところに焦点をあてた点です。
これは、梅原猛の著書である「隠された十字架」などを一読すれば明瞭なのですが、古代は「祟り」と「鎮魂」という霊的所作を背景とし、烈しく歴史が動いているため、単なる偉人伝として捉えるわけにはいかないのです。
したがって、実写では表現できない世界、つまり、霊的なものをマンガという手段を使って作品に反映することで、スケールの大きい歴史的テーマを完成させたわけです。

その昔、一万円札に厩戸王子が印刷されていたことを知らない世代には、とりわけ、飛鳥斑鳩が政治と文化の中心であった時代を知るとっかかりとして、「日出処の天子」は秀逸の作品なのです。

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2006年11月 5日 (日)

天沼矛。

「全てはあいまいな印象の向こう側に隠されたまま・・・」

自分という人間を持て余してしまう時があります。
相手が求めるものに対して、自分は一向にそれに応じることが出来ず、がっかりさせてしまいます。
どうにかして伝えなくてはいけないと思ったところで、その感情は理性によって抑制され、紡ごうとした言葉たちは音声となる前に消滅してゆくのです。
相手の求めているものと自分が求めているものの相違は、どちらか一方の犠牲の下に埋められていくものなのかもしれません。
私は、相手の犠牲の上に存在しているのでしょうか・・・?
漠然とした展望のあいまいさは、相手に疲労感だけを植え付けてしまうのでしょうか・・・?
文字の羅列を追いかけることに小休止して、私はマンガを読むことにしました。
山岸凉子の『月読』という作品集の中に入っている一作なのですが、「天沼矛」(あめのぬぼこ)に年甲斐もなく胸を熱くしました。
これは、日本の古典をモチーフにしています。
ここでは、私の好きな第一話「夜櫻」について少しだけご紹介します。

たった一人きりの孤独な神がいました。
神の御殿は真っ暗な闇の世界。
庭には満開の夜桜がはらはらと散っていました。

「ああ、寂しい」

神はその孤独感に押し潰されてしまいそうでした。
その孤独と静寂の最中、あまりの辛さに涙が零れ落ちました。
やがてその涙は小さな水沼となるのです。

「そうだ、わたしにはあれがあった。」

神は突然、沼矛のことを思い出しました。
その天沼矛で水沼をゆっくりとかき回しました。

「愛しい人よ、出ておいで。」

すると、一人の美しい少女が水沼の上に生まれました。
それは、孤独と絶望の闇の最中に射した一条の光でした。
その愛しい生命を永遠に独占したい。
自分の肉の一部として守り抜いていきたい。
神はその誕生を祝い、歓喜のあまり、思わず少女を抱きしめたくなりました。
しかし、少女は神の恐ろしい姿に怯え、顔を背けてしまうのです。
なぜなら、その若い神は蛇神で、その姿は大蛇だったのです。
運命とは皮肉です。
孤独と絶望の深淵から這い上がるために、さらには、自分の肉の一部として愛おしむべき存在として生み出した少女のはずでしたが、彼女は一個の人格を持つ人間でした。
神の一部でありながら、実は他者だったのです。
少女は完全に神を否定し、受け入れなかったのです。
神は再び孤独のどん底を味わうことになってしまいました。
それは、少女がいなかった時より現れた今の方が何倍も感じられる空虚感、徒労感、そして狂信的な寂しさでした。
神は自分の求めているものが叶えられることなく、また、恐怖に怯える少女を救いたい一心で、自らの姿を消してしまいます。

このストーリーは最終的にハッピーエンドです。
神の自己犠牲によって、少女は一番大切なことを知るのです。
少女のために自らを犠牲にした神が、息絶えてしまった時、彼女は羞恥心を捨て、自尊心を捨て、けがれのない豊かな乳房を神に差し出すのです。
その乳房から滴るあたたかな乳汁は、やがて、神の生命の躍動を再び呼び起こすことになるのです。

生命の誕生とは、なんと神秘的で、そしてロマンチックなことなんでしょう。
どれほど愛おしく大切に想う人でも、それが自分以外の他者である限り、自分の思うままにはいかないのです。
けれどそこに「絆」が存在する限り(それはもしかしたら「親子」、あるいは「夫婦」の関係に当たるものでしょうか。)、永遠の愛が泉のように広がっているのです。

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2006年6月29日 (木)

天人唐草。

たいていのマンガは一読するとそれっきりになってしまいがちなのです。
ところが山岸凉子さんのマンガは一度読んで内容を把握し、二度目読んで感想を持ち、日を置いて三度目読んでその深層に迫ることが出来るのです。なので、飽きるということがありません。
山岸凉子さんは北海道の出身で、北海道女子短期大学美術科を卒業されています。1969年に少女漫画雑誌りぼんコミックにおいて「レフト&ライト」でデビューしました。代表作に「アラベスク」「日出処の天子」等があります。
私が衝撃を受けたのは「天人唐草」という作品なのですが、文春文庫から出ています。(山岸凉子さん自身が厳選した短編集になっています。)
そのあらすじですが・・・

主人公の響子は幼少の頃より厳格な父にしつけられ、いつも他人の顔色を窺いながら生活をしている。
高校生になってからは、その性格に輪をかけて内向的で、特に男子に対して異常なほどの奥手となってしまう。
その後、社会人となり就職してから響子の母親が急死したので仕事を辞め、家庭に入り、何度かお見合いなどもしてみるが成就することはなかった。響子の大人し過ぎる性格が災いして、相手を疲れさせてしまっていたのだ。
そんな人格形成の要因となった父も、ある日突然愛人宅で亡くなってしまう。響子はその父親の愛人と対面したことで、大変なショックを受ける。と言うのもその愛人は、娘にはこうあってはならないと言い含め続けて来た、派手でしかも煙草を吸うような女性だったからだ。
その愛人宅からの帰り道、響子はうちひしがれながら夜道を歩いていた。すると見知らぬ男から羽交い絞めにされ、暴行を受ける。
響子は救われる術もなく、狂気の世界へと突入する。

この後味の悪さたるや、今までに経験のないものでした。
主人公の響子にはまるで救いの手は差し伸べられませんでした。
山岸凉子さんが、いかに作中の人物と距離を置き、冷静で客観的に向き合っているかが分かります。
自分の性格の欠点を親の育て方に問題があるとするのではなく、自分が己の根本を見つめ直す勇気が必要なのだと。そこから逃げてばかりいると大変な落とし穴が待っている、と社会に警鐘を鳴らしているのかもしれません。
とても考えさせられる一冊なのです。

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