2015年3月 9日 (月)

自分探しと楽しさについて

この時期、花粉症に悩まされて憂うつだという人もいれば、新しい環境で一からスタートすることがイヤでたまらないという人もいると思います。
私はそのどちらも抱えて、もう何回も春を通り越して来ました。

もともと女子という生きものは、心のどこかで男性への依存心があったりするので、社会人として働くようになっても、いざとなったら「結婚」への逃げ道を切り札として持っていることもあります。(もちろん、そうではない人もたくさんいます。)
そのせいか、自分というものに向き合う姿勢も、男性のひたむきさとか真剣さに比べると、ちょっと質的に違うような気もします。

とはいえ、私のように早くから両親を亡くしたり、結婚に失敗したり、火事に遭ったりと、様々なトラブルが続いて絶望的な気持ちを味わうと、やっぱり「自分って何だろう?」などとしおらしく考えてみたりすることもあるわけです。

ネットで過去の大学入試問題を眺めるのが好きで、とくに国語で出題される小説とか評論文などを読んでいたら、『自分探しと楽しさについて』という森博嗣の著書からの抜粋がありました。
これがまた私の触手を刺激し、書店で一冊購入することにしたのです。
集英社新書から出ているのですが、とても読み易い!
著者は若い人向けに書いたのでしょうが、私のような40代のオバさんが読んでも、全く問題のない内容となっています。

「自分探し」というのは、簡単に言ってしまえば、自分が何を欲しがっているのかが分からない状態で、それをあれこれ考えているプロセスのことだと言うのです。
自分にぴったりマッチするものが分からないから、誰かのやっていることをマネしてみたりするけれど、どうもしっくりこない。
もしかしたら自分に問題があるから継続できないし、楽しめないのではなかろうかと苦悩するのだと。

じゃあどうすれば良いのか?

著者が提案するのは、「他者に目を向ける」というものです。
これは年齢が若いと、ちょっと受け入れ辛いかもしれません。
若い時はどうしても「自分、自分」になりがちだからです。
私みたいに40歳を過ぎると、周囲の人たちに興味がわいて来ます。(笑)
俗っぽいことはともかく、周囲の人たちを見たり、周囲のものをよく知り、観察することが必要なのではと。
これがつまり、「思考」につながり、「自分」を知る手がかりになるというものです。

何でもそうですが、いったん「自分」から離れてみないと分からないことってあるので、あまり「自分」というものに固執しない方が良いのかもしれません。
あとは、とてもオーソドックスに、自分なりの楽しみを見つけることでしょうか。
その楽しみというのは、流行や他人から押し付けられたものではなく、自分が好きで楽しんでいること。
それを見つけられたら、半分は「自分探し」に成功したようなものではないでしょうか?

著者は作家であり、工学博士でもあるのですが、趣味は意外にも庭園鉄道の工事だそうです。
線路を敷いたり、スコップで土を掘ったり、それを運んだり、なかなかの重労働に思えます。
でもその作業が「実に楽しい」と言います。
「楽しさ」は社会から恵まれるものではありません。
「自分」の内から生まれるものなのです。
だとしたら、自分なりの「楽しみ」を見つけた時、知らず知らずのうちに己を知る一つの手がかりとなるかもしれません。

『自分探しと楽しさについて』は、自分を肯定させてくれる良書なのです。

『自分探しと楽しさについて』森博嗣・著(集英社新書)

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2014年11月23日 (日)

大人のための残酷童話

ここのところストレス過多で、肩こりやら頭痛に悩まされていましたが、ようやく改善されつつあります。
まずは休養をとりました。
だいぶ有給休暇も貯まっていたので、思い切って平日にお休みをいただき、羽を伸ばしてみました。
羽を伸ばすと言ってもどこかへ旅行するとかではなく、図書館で10冊ほど本を借りて来てどっぷり読書に浸ったのです。
そうそう、ケーキも買って来ました。(誕生日でもないのに、、、)
和栗モンブランです。
あったかいコーヒーを飲みながら甘い物を食べ、こたつで丸くなって読書三昧。
贅沢なことです。

不思議なもので、気持ちが萎えている時はホラー小説みたいにとんでもなく現実から逃避したジャンルは、反って心に優しい(?)のです。
ベタな恋愛小説で他人のハッピーエンドに胸を熱くさせるような年齢でもないし、かと言って、社会派ノンフィクションなどはこの年の瀬に読む気にはなれないし、、、(孤独死を扱ったものとか)
そんなわけで、倉橋由美子の『老人のための残酷童話』を読んでみました。

この作家の作風は、どこまでも渇いた感じです。
どれほどの濡れ場であっても、そこに男と女という物体が存在しているに過ぎず、感情の吐露みたいなものは皆無なのです。
「恋」とか「愛」という文字が、感情を伴わず、単に文字として存在しているような、まぁそういう感覚で読むと、本来の倉橋作品の醍醐味を味わえるのではと思います。

『残酷童話』は短編集となっているのですが、どれもものすごく残酷でした。
中でも「老いらくの恋」は衝撃的で、夢にまで出そうでした。(笑)
端的に言ってしまえば、偉いお坊さん(80歳)と盲目の少女との恋のお話です。
偉いお坊さんのやることなすことは、これこそが仏の道に仕える者の正しき姿なのかと錯覚してしまいます。
でも、よくよく読んでみると「あれ?」と首をかしげてしまう箇所がいくつも出て来ます。
それも仕方がありません。
この作品はあくまで童話なのですから。

この80歳の偉いお坊さんは、弟子の僧の一人が病に伏していると、そこへ盲目の少女も連れて行きます。
驚くのはその場へ少女を寝かせ、股を開かせて、病人である弟子にその秘所を拝ませてやるのです!
ちょっとこのあたりになると、『老人のための童話』というより『大人のための』と言い換えた方が良さそうです。
本来ならこういうシーンはもっとエロティックに描かれるべきところなのでしょうが、倉橋由美子の筆致はまるでそれを忘れてしまったかのように、淡々としていて、むしろドキュメンタリータッチ(?)なのです。

倉橋作品は、読み手によっては嫌悪感をもよおす方もおられるでしょうから、後味の悪さを気にされる方にはあまりおすすめできません。
とはいえ、ハマるとやめられなくなりそうな作品が多いのも事実です。
ちょっとでも興味を持たれた方は、ものは試しで、こちらの『老人のための残酷童話』あたりを手に取られたらいかがでしょうか?

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2014年11月11日 (火)

疲れた社員たち

一週間ぐらい前からココログのコメント欄に書き込みをするのが困難になっています。
管理者の私がコメントを書くことができないって、一体どうして?!
近日中にサポートセンターに電話して相談してみようと思っているのですが、昨日電話してみたところ、なかなかつながらないのですよ、、、(涙)
5~10分ぐらいなら待ってみるのですが、それ以上となるとさすがに面倒くさくなってしまい、結局つながらないまま電話を切ってしまいました。

こちらのブログに度々コメントを寄せていただいている松枝さん、本当にごめんなさいね!
せっかくお返事を書こうと思ってもコメント欄に書いた文章がぜ~んぜん反映されずに消えてしまうんですよ、、、(涙)
丹羽文雄の小説に興味を持っていただいたようで、大変うれしいです!
勝目梓の『小説家』も私小説なのですが、なかなかですよ(^_-)-☆
この二人、松枝さんのおっしゃるとおり共通性があるかもしれませんね!

さて、最近どうも疲れが溜まっています。
仕事は肉体労働ではないのですが、メンタル面で疲弊してしまい、自分の気力を真っ直ぐに保っておくのがおっくうです。
生きていれば様々な問題に直面するのは当然のことながら、ふだんならさして気にしないことでも、積み重なって来ると堪えます。

そんな中、タイトルを見て思わず購入してしまいました。
『疲れた社員たち』という短篇集です。
著者は眉村卓で、もともとSF作家としてデビューを果たしています。
代表作に『ねらわれた学園』などがあり、もう30年以上も前に映画化され、話題にもなりました。
阪大の経済学文を卒業しており、作家になる前は長らくサラリーマン生活を送っていたようです。

『疲れた社員たち』は、8作品のショートショートがおさめられていて、どれもサラリーマンを描いたものなのです。
不思議な作品ばかりで、背中がゾクゾクするようなラストが多いのですが、私は大好きです。

中でもとくに気に入ったのが、『ふさわしい職業』です。
この作品は近い将来、必ずや起こり得る状況のような気がして、読後は妙な焦燥感に襲われました。
あらすじは次のとおり。

50歳を過ぎた瀬木は、体調不良のため病院の診察を受けた。
精密検査の必要があると言われ、大学病院への紹介状を書いてもらった。
大学時代の友人が勤務する病院に出向き検査を受けると、悪い想像が当たり、かなり状態が良くないようだった。
手術を勧める友人だが、おかしなことをつけ加えた。
「手術には全力をつくすが、仮に結果が良くなかった場合、未来の医学に任せるための処置を許してほしい」とのこと。
つまり、現代の医学ではどうすることもできなくとも、未来の医学ならば病気を治せるかもしれないというのだ。
その場合、瀬木の身体を低温で保存し、未来の医学に委ねるというものであった。
結局、瀬木は友人の説得に応じ、書類にサインした。
そしてその後、瀬木は目覚めた。
だが現代ではなかった。
瀬木にとってはなんと、50年後の近未来の世界で目覚めたのである。

この作品を読んでいてヒヤリとしたのは、せっかく50年後に生き返った瀬木が未来の人間に、「あなたの使い道がないか、考えている」と言われてしまうシーンです。
思考が50年前のままの瀬木にとって、近未来は何もかもが未知の世界なので、どうやって生きていけば良いのかも分からない。
もしもその世界で役に立たず、不要な人物だと認定されてしまうと、再び生命停止の状態にさせられてしまうというのです。
つまり、殺されるわけではないのですが、社会に不要な存在ならば、その人間が必要な状況が来るまで眠らされてしまうというものなのです。
ある意味、究極の合理主義ではありますが、とても恐怖です。

『ふさわしい職業』は、近未来小説でありながら、一方で現代社会を風刺した作品のようでもあります。
わずかな時間で読了できることもあるので、お昼休憩やアフター5のひと時にお勧めです。

『疲れた社員たち』眉村卓・著

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2014年10月 5日 (日)

ありふれた老い

今年は私の親しい友人たちのお父上が、次々と亡くなられました。
仕方のないこととは分かっていながらも、寂しさとか悲しさというものは、簡単に拭えるものではありません。
自分自身の過去の記憶が嫌でもよみがえるせいなのか、そこはかとない喪失感に襲われます。
あの時、私はこうすれば良かった、ああすれば良かったと、思うことはたくさんあるのですが、すべては「後悔先に立たず」なのです。
今となってはどうすることもできません。
変更の効かない過去が、情け容赦なく、ぬえのように横たわるに過ぎません。

最近の読書の傾向は、意識しているわけでもないのですが、介護記録のような作品を読むことが多いのです。
それにしてもその内容は、ほとんどが壮絶な闘病記で、一読者として読後はもうヘトヘトになってしまうものもあります。
そんな中、唯一安心して読める介護記録があります。
それは他でもない、松下竜一の『ありふれた老い』です。

松下竜一といえば、私の大好きな社会派ノンフィクション作家で、代表作に『ルイズ 父に貰いし名は』『砦に拠る』『豆腐屋の四季』などがあります。
その松下竜一の父親(85歳)が、ある日突然倒れることで、老人問題の幕開けとなるのです。
この時、著者は54歳、妻・洋子は43歳、中学生の杏子、長男・健一は社会人で熊本に在住、二男・歓は福山市の大学生です。

著者の母親は若くして亡くなっていたため、高齢の父親の面倒をみるのは長男である竜一とその妻の務めです。
なので、寝たきりとなった老父に対し、少しも慌てず、自然のなりゆきとして介護生活に突入していきます。
しかも在宅介護という手段を選択するのです。
もちろん、下の世話やら入浴の介助などは決してキレイゴトではありません。
七転八倒の世界です。
ハンデなのは、著者自身が多発性肺のう胞症という厄介な持病を抱えていて、階段の上り下りは言うまでもなく、布団の上げ下ろしでさえ暫くは呼吸を整えねばならないほど喘いでしまうのです。
だから、身体の自由の利かない老父を動かす時などは大変。
その度に著者は肩で息をして、あげくに咳き込んでしまうというありさま。
妻と二人がかりでやったとしても同じ状況だったというので、それはそれは大変なご苦労だったことと思います。

とはいえ、ここまでの様子はどちらの家庭にもおおよそありがちな介護風景だと思うのです。
スゴイと思うのは、夫婦が共倒れにならないために、あるいは家族が一丸となって介護に向き合っていくために、結婚記念日を中心に夫婦で二泊三日の旅行に出かけていることです。
じゃあその間、老父の面倒は誰がみるのかと言えば、中学生の娘・杏子がおじいちゃんの隣の部屋に寝て、気を配るようにしているのです!

ほのぼのと感じるのは、孫が寝ているおじいちゃんに修学旅行の話をすると、財布から三千円持って行けと言うのです。
きっと小遣いにしろと言うことでしょう。
孫は、おじいちゃんの財布をあけてみると中身はからっぽ。
でも、そういうおじいちゃんの気持ちが嬉しくて、「ありがとう」とお礼を言うのです。
このくだりは、何となく心あたたまるのです。

お年寄りは、というより誰もが同じ気持ちだとは思いますが、住み慣れた我が家が一番良いのです。
死を待つだけのような、冷たく無機質な病院や、右を向いても左を向いても老人ばかりの施設になどは住みたくないのです。
ところが現実には、どの家庭でも在宅介護が可能な環境にあるわけではなく、松下竜一自身も、夫婦共倒れの危機を感じ、結局、ショートステイの利用に踏み切ります。

様々な葛藤や思いの中で日々をすごしていくわけですが、自分の置かれた状況をどこまでも前向きに捉えることは有意義なことです。
作中、著者は自身の父親が「おれたちのために病気になってくれたんじゃないか」と述べています。
父親は、居るのか居ないのかわからないような存在で、いつもひっそりと静かな人柄だったと。
だから日常生活では構わずにほうっておけば良かった。

『だが、もしこんな淡々とした関係のまま父が亡くなってゆくのであれば、やはり私たちには悔いが残っただろう。(中略)そんなふうに私たちをあとで後悔させないために、「どれ、最後に少しばかり面倒をみさせてやることにするか」と思い立って、父は足腰の立たぬ病気にかかってくれたような気がしてならない。』

介護というものを、こんなふうに優しい気持ちで捉えることができたのは、何故でしょうか?
いろんな考え方があるとは思いますが、結局のところ、介護する立場にある人の心構えなのかもしれません。

松下竜一は、「家族が追いつめられるほどに難しいケースではなく、どこの家庭にも起こりうるごくありふれたケースの一つ」であると言っていますが、それだからこそ共鳴もでき、納得のいく内容となっているのでしょう。

様々な著名人が介護に関する著書を発表されていますが、もしもどれか一冊おすすめするとしたら、私は迷わず松下竜一の『ありふれた老い』をあげさせて頂きます。
平凡なる庶民の、平凡なる日常の風景なのです。

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2014年10月 1日 (水)

淋しいアメリカ人

開国以来、日本は西洋に追いつけ追い越せで、死にもの狂いで頑張って来ました。
とくに戦後はアメリカのバックアップもあって、良くも悪くもアメリカの影響をまともに受けているようです。
それは庶民レベルの最も一般的な大衆にジワジワと吸収しつつあるもので、日本人がことさら意識するまでもないことかもしれません。

『淋しいアメリカ人』は桐島洋子によって書かれたルポルタージュで、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しています。
昭和46年の著書なので、すでに43年も前の作品です。
それなのに大して時代性も感じることなく、かえって現代においては“淋しい日本人”と置き換えても全く問題ないように思えてしまうのが恐ろしいぐらいです。

桐島洋子のあとがきを読むと、「アメリカで流行るものは必ず日本でも流行る、アメリカを見たらそれを数年後の日本と思え」とありますが、それは言われるまでもなく、周知のとおり。
つまり、アメリカの諸症状が、そのまま「日本人自身の未来図」であるというものです。
ところが話はそこで終わらず、「日本人はアメリカに慣れ親しんだあまり、その手近な一面だけであっさりアメリカを理解した気になって、アメリカの途方もない容積というものを甘く見過ぎているように思われる」とあります。
うむ、なるほどと思いました。
確かにそれは感じます。
例えば、“自由の国アメリカ”というキャッチ・コピーだけを捉えても、日本人の感覚から言えば、伸び伸びとしたイメージを受けるし、明るく前向きな雰囲気が漂います。
ところが桐島洋子は、アメリカでの“自由”について、次のように述べています。

「かつてアメリカにあった自由は、日本では考えられない種類の烈しい自由だった。それは巨億の富を独占する自由であると同時に、行き倒れて飢死する自由でもあった。徹底した自由が、人間の強弱や運不運の隔差をあまりにも大きくし過ぎることはみるみる明らか」

になったとあるのです。
これって、“格差社会”で問題となっている今の日本にも当てはまりはしないだろうか?
とはいえ、もともと“自由”の伝統が異なる日本に、「見境いなく直訳直輸入したらおかしなことになる」と、著者は警鐘を鳴らしています。
ヤバイなぁ、、、と思ったところで後の祭り。
日本人には違和感きわまりない西洋の“自由”について、改めて認識を変えていくしかないでしょう。

一方、人種差別問題についても触れていますが、おおざっぱに言ってしまえば、白人と黒人とのいざこざ(?)です。
これは日本にも少なからずある問題なので、他人事ではありません。(在日、同和問題など)
桐島洋子は、当時としては前衛的で、社会常識にこだわらない“とんでる女性”の代名詞でもありました。
実際、結婚もせずに外国人との間に生まれた子どもを3人も出産しており、不道徳とか不体裁など、そんなものに囚われたりしない進歩的な女性でした。
そんな著者が、黒人に対しては、意外にも違和感を抱いています。

「彼等はあまりに異人種なのである。生活を共にしてうまくいくことは絶望的に思われるし、仕事の相手としてさえテンポがちがいすぎるように思う」

さらにはこんなことも言っています。

「私には黒人と結婚したり黒い赤ん坊を生んだりする勇気はない」

桐島洋子のスゴイのは、決してキレイゴトを並べるのではなく、「残念ながら私もまた人種偏見の持主である」と、素直に認めている点です。
考えてみれば、異なる文化・伝統を持つ国の人々を理解しようと努力するにしても、限界があるからです。
大多数の白人が黒人との融合をのぞんではいないと言ったところで、だれがそれを批難する権利があるでしょう?
著者が言うように、「人間の理性だけではどうしようもないものがそこにはある」のです。
それはもう、個々の分別と理知を持って対応していくしかないかもしれません。

桐島洋子が、夫婦交換パーティに潜入したり、アングラ新聞(日本でいう東スポみたいなもの?)に三行広告を載せたりすることで、性の自由や希薄な個人主義の実態が、赤裸々に取材されています。
これを読むと、徐々に合理主義と消費文明に侵食されつつある日本にとっても、決して他人事ではないように思われるのです。
『淋しいアメリカ人』は、今を生きる日本人にもそのまま当てはまるのではないかと、空恐ろしく感じてしまいました。

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2014年9月25日 (木)

たまゆら

男性も女性も、それこそ人の数だけタイプがあり、それぞれに違うのでしょうが、私のような単純な思考回路の持ち主だと、おおざっぱに言ってしまえば男性は浮気をする生き物なのだ、と捉えています。
もちろん女性も、する人はするだろうし、男性だって、しない人はしないと思います。
でも、比率で言ったら圧倒的に男性の方が多いのではと考えるわけです。
きっとそれは生物的な問題であって、大したことではないとも思っています。

一般的に浮気というのは、他にちゃんと本命があってその上での火遊びのようなもの、と世間の女性は捉えているわけで、自分が本命という立場にあるならば、少しぐらいの浮気は大目に見てやろうという寛大さを、たいていの女性は持ち合わせていると思います。
(とはいえ年齢的に若いと、なかなかそうはいかないかも、、、)

ところが『たまゆら』を読むと、そういう単純な思考が音を立てて崩れてゆくのです。
既成概念に囚われていた自分が恥ずかしいのですが、もともと男性に浮気という概念のないタイプが存在するということを、今さら知ったからなのです。
裏を返せば、浮気もない代わりに本命もないのです。
じゃあ恋愛感情がないのかと言えば、まったくそうではなく、女性に対しては限りなく優しく、恋を囁くには余りあるスタイリッシュでクールなダンディ。
でも男性は「結婚にはあまり興味がない」と、予防線を張るのです。

そんな男性を好きになってしまった女性は、おいそれとあきらめもつかず、結局は先のことなどは考えず、何も約束せず、不幸の予感めいたものを抱きながらも付き合いを続けていくのです。
男性はそんな女性を愛おしむ一方で、親の勧める見合い相手とお義理でデートを重ねます。
そこに罪悪感はなく、どちらの女性にも誠意(?)を見せているというもの。

他にも、その男性に好意を持つ女性はいて、男性はその一人一人に優しく、無意識のうちに思わせぶりな態度なのです。

『たまゆら』の作中では、現代の光源氏的なその男性を、妙に完成度の高い男性に仕立てることで、反って読者に反感を仕向けているのがおもしろい。
そんなのは自由恋愛という幻想の上に成り立つものであり、不毛な恋愛地帯であるに過ぎません。

このような男性を「この上もなく利己的で、この上もなく高慢な人間に違いない」と批判できる女性は少なく、たいていの女性はそのタイプの男性を限りなく誤解し、受け入れてしまうので、もうどうしようもありません。

『たまゆら』では、その手の男性に熱をあげてしまい、でもその気持ちを振り切ろうと別の男性と結婚までするものの、やはり思慕を捨て切れずに精神を病んでしまう女性が登場します。
このような絶望的な状況となっても、当事者である男性は「優しく」その女性の想いを拒絶します。
罪悪感など微塵もありません。

曽野綾子の『たまゆら』は、1959年に上梓された作品なので、すでに50年以上の月日が経っています。
それなのに今読んでもまったく時代性を感じさせず、むしろ新しい感じがします。
私の身近なところでは、作中にあるような束縛のない自由な交渉を良しとする男性はいません。(ホンネは分かりませんが、、、)
しかし、もしもご主人やカレの浮気で悩んでいる友人がいたら、この小説を読むように勧めてやりたいと思うのです。

「あくまで本命はあなたなのだから、そんな浮気なんて気にしなさんな」

と、言ってやるのです。
求めても受け入れず、こちらの心を「優しく拒絶する」自由恋愛よりは、浮気の方が数倍も人間的で可能性のある感情なのですから!

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2014年9月14日 (日)

母に歌う子守唄

お彼岸が近付くと、季節の変わり目とも重なるせいか、体調を崩しがちになります。
娘さんのご結婚のことでさんざん悩んでいたSさんも、今はそれどころではない状況となっているようです。(8月20日付、当ブログ記事を参照)
というのも今月に入って、Sさんのお母さんが体調を崩され、入院したとのこと。
娘さんの結婚もしばらく延期となり、今は介護の方に専念されています。
よもや占い師さんから伝授された縁切りの秘法が、こんな形で作用しているとは思いませんが、さすがのSさんも今はそれを中断し、病院と自宅の往復で日々が過ぎるという多忙を極めているようでした。

一方、私の親しい友人の父親が、やはりここ数日のうちに体調を崩し、入院しました。
と言っても、数カ月前にガン宣告を受けてはいたのですが、なにぶんご高齢なので、それほど急激な悪化はないと思われていたのです。
容体もずっと安定しており、気長にガンと付き合っていくつもりでいたらしいのですが、急変したと。
当たり前のように存在する親は、いつまでも死なないような気がするのに、こうなってみて初めて、命には限りがあることを知るのです。
折しも、落合恵子の介護日誌である『母に歌う子守唄』は、この友人が私に紹介してくれた本でした。

落合恵子と言えば、元文化放送アナウンサーであり、みのもんたの同期に当たるそうです。(ウィキペディア参照)
明治大学文学部卒で、幼児教育誌などを発行したり、子どものための本や女性のための本の専門店を経営しています。
こうして華々しいプロフィールだけ追うと、ビジネス・ウーマンとして勝ち組の部類に入りそうな気もしますが、この『母に歌う子守唄』を読むと、大変なご苦労をされた側面も窺えて、介護経験のある私などにはとても共鳴できるのです。

この著書は、一人娘である落合恵子が実際に母親の介護や老いに直面し、思うことや考えたことを介護日誌として綴ったエッセイなのです。
落合恵子の母に痴呆の兆候が表れたのは、「散歩の途中で道に迷って」帰宅できなかったというのが最初だったそうです。
ところが実際に病院でお世話になるのは、腎臓結石による発熱で入院し、そこで初めて医療の現場に直面するのです。
講演活動や執筆業で忙しくしている著者からすれば、もっと早くに母の体調の変化に気付き、然るべき治療を開始していれば良かったと、悔やみきれない思いで一杯のようです。
そしてその様子がこの著書のそこかしこから漂っています。

検査を受けて新たな病名を知ることとなったものの、落合恵子は納得がいかず、セカンド・オピニオン、サード・オピニオンを求めて、漸くたどりついた診断結果が“アルツハイマー病”だったのです。
しかしこのプロセスをたどれるのは、やはり確固たる主義主張を持っている落合恵子ならではの帰結という気もします。
一般的な感覚から言わせて頂くと、最初にお世話になった病院の診断結果を反故にし、他の医師の診断を仰ぐというのは、なかなかできないものです。
(もちろん、そんな遠慮などをしていたら治る病も治らなくなってしまうかもしれないので、まずは一番苦しんでいる患者の立場に立たなくてはいけませんが。)

そんな著者でも、いわば母親の命を預けている主治医との関係には、ずいぶん神経質になっているのを隠せません。

「教えていただきたい。他の人たちはどうやって医療と向かい合っているのだろう。そこに不安や不信や疑問を見つけてしまったとき、どのように乗り越えていかれるのだろう。」

主治医も所詮、一人間。
どうしたって相性の問題もあると思うのです。
その主治医に対して不信感を募らせてしまったら、患者とその家族はもうどうしようもありません。
たいていは「ほどほど」であきらめるしかないという現実に、落合恵子もその当事者となってみて初めて思い知らされたのです。

同じような経験を、私の友人も現在進行形の状態で味わっています。
大切な家族の命を預けているにもかかわらず、病院との折り合いをつけ、「ほどほど」の医療で我慢を強いられる現状。
完璧な医療を求めることができないジレンマに、悶え苦しまねばならない患者とその家族。
本当に難しい問題なので、一体何が正論なのかも分からず、混乱してしまいます。

今、介護に直面されている方々、きっと読書の時間なんてなかなか取ることができないでしょうが、この落合恵子の著書は、介護入門とも言えるエッセイ集となっていますので、おすすめです。
寝る前の10分ほどの読書タイムに、いかがでしょうか?

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2014年8月13日 (水)

天上の青

リアルタイムでは知らないのですが、連続婦女暴行殺人事件の犯人として、その名も有名な大久保清。
私などの世代は、外出の際に親から、「大久保清みたいな男がいるから気をつけなさいよ!」などと注意を受けたものです。
とにかく、それほどまでに殺人鬼として恐れられた人物なのです。

この事件が明るみになったのは、1971年に群馬県警によって大久保が逮捕されたことによります。
すでに43年も昔のことで、しかも加害者である大久保は死刑を執行されており、以来これほどまで世の女性を震え上がらせた事件は、余りありません。
とはいえ、昨今の凶悪事件の報道からも分かるように、冷酷で凄惨な事件は減少傾向にはなさそうです。

曽野綾子の『天上の青』は、そんな大久保清の事件から材を取った作品です。
実際の大久保は画家を装い、「絵のモデルになってくれませんか?」と女性に声をかけていたようですが、小説の方では、自分は詩人で本も出しているとウソをついて女性に近づいていくシーンがあります。
私も女なので、そんなウソくさい言葉でもコロリと騙される女性心理は、分かるような気もします。
女性というのは、相手がアーティストだったり、クリエイターだったりすると、がぜん興味が湧くのだから不思議です。

さて『天上の青』ですが、これは主人公である波多雪子が育てている朝顔の品種で、ヘヴンリー・ブルーという名前を和訳した意です。

あらすじです。
ある朝、雪子は庭の朝顔の手入れをしていたところ、見知らぬ男が近付いて来た。
男は雪子の育てている朝顔が気に入ったようで、種を分けて欲しいと言う。
雪子が快諾すると、男は種が取れたころにまた来ると言って去って行った。
雪子は今年38歳のシングルで、2歳年下の妹と二人暮らしをしていた。
出版社に勤務している妹はパリパリのキャリアウーマンで、明るく社交的な性格をしているのに対し、雪子は地味で大人しく、人との付き合いが苦手であった。
だが和裁の腕があるためそれを活かし、生活を支えていた。
ある時、いつか朝顔の種を分けて欲しいと言った男がひょっこり現れた。
男は宇野富士男と言い、離婚歴はあるが現在独身だとのこと。
雪子はせっかく来てくれた宇野という来客を家に上げ、少しの間おしゃべりをし、頼まれていた朝顔の種を渡した。
宇野はこれを機会に雪子と親しくなりたいと、雪子の電話番号を聴いた。
雪子はすんなりメモ用紙に書いて手渡してやった。
その後、雪子とは何度か会っておしゃべりをしたり、つかの間のひとときを楽しんだが、雪子と宇野は男女の間柄になることはなかった。
そんな中、宇野は雪子の知らないところで、めぼしい女を物色し、言葉巧みに車に乗せ、性行為に及び、何かの拍子に激昂すると、殺害して遺棄するという行為を繰り返すのだった。

小説の後半で、結局、宇野は逮捕されるのですが、謝罪や反省の言葉を口にすることはありません。
ところがそんな宇野のために、雪子は自腹を切って弁護士を頼みます。
もちろん、雪子の周囲は大反対で、世間からの非難を浴びます。
作中の宇野は、母親から無責任な愛情を注がれ、無職でブラブラしているにもかかわらず、5万円もの小遣いを渡され生活しています。
そんな自分勝手でいい加減な態度に、富士男の義兄は嫌悪し、度々衝突するのですが、どうすることもできません。

著者はそういう生活環境を露わにすることで、犯人をフォローしようとした形跡はどこにもありません。
むしろ、淡々と冷酷さやら残忍さを描いているぐらいです。
巻末の解説にもあるように、「生い立ちから詳細に説き起こして、そういう犯罪にはしらざるを得なかった必然性のようなものを探り出す」というパターンではないのです。

では、一体どんな意図があってこの事件にスポットをあてたのでしょうか?
これは、私個人的な感想ですが、主人公の雪子がクリスチャンであることがキーワードとなっている気がしてなりません。
社会を揺るがすほどの凶悪事件を起こしていながらも、雪子にとっては優しい男だった富士男に対し、憐憫の情があるのです。
「死刑を執行する制度も人も共にない方がいい」と思っているのです。
ただ、現実には宇野富士男は死刑判決を受け、執行されてしまいます。
それだけの罪を犯しているのですから、当然の報いだとも言えます。

“人が人を裁いてはいけない。神のみが裁いて良い”というスタンスにあるキリスト教者にとって、現実的な法の裁きは相当な負担を強いられるものだと思います。
理不尽で納得のいかない、不正で不当なものがゴロゴロと横たわる現実社会では、誰もが片目を瞑って耐え続けていかなくてはなりません。
『天上の青』は、多くの課題を突き付けた小説となっており、単なるサスペンスものというカテゴリには収まり切れない、社会派長編小説なのです。

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2014年7月10日 (木)

砂糖菓子が壊れるとき

コイバナはいくつになっても盛り上がる話題の筆頭です。
さすがに既婚者の友人には、そんな浮ついた話を持ち出して来る人はいませんが、いまだ独身の友人K美さんには気になる相手がいるようです。
これまでこのブログに何度か登場しているおもしろキャラのK美さんは、昨年の夏に大阪へ引っ越してしまったため、以前のように頻繁に会っておしゃべりしたり旅行に出かけたりすることもなくなってしまいました。
どうやら職場の同僚の某さんに心惹かれているようで、K美さんにとってときめきの止まらない(?)職場環境に違いないのです。
しかも某さんは、K美さんよりも9歳も年下とな?!
けっこうなことです、はい。
友人の私めは、ただただK美さんの恋が成就することを祈るのみなのです。

それにしても恋愛というものは、一つの才能ではないでしょうか?
たとえば恋愛の才能のある人は、全身全霊で相手にぶつかってゆき、成就するも撃沈するも、そのプロセスを大いにドラマチックに盛り上げることができるのです。
恋に燃えている時は、仕事や勉強のことが手につかず、相手の欠点も冷静には判断できません。
でも、それさえも才能なのです。
形振り構わず、相手を振り向かせようと、あの手この手で攻めまくるというもの(?)です。

テレビドラマや小説の世界ではそういう恋愛スタイルがスタンダードで、“恋に臆病なあなたへのエール”的な内容となっています。
それはそれで充分楽しませてもらっているので問題はないのですが、実際、私のように恋愛の才能がない人種にとっては、どこか異次元の話に思えて仕方がありません。
というのも、私の経験から言ったら、女性ばかりの職場での出会いは論外だし、たまたま落し物を拾ってもらい、話しかけられるとか、エレベーターで肩がぶつかって、思わず見つめ合うなどのハプニングは、まずありません。
せいぜい、世話好きな親戚のオバちゃんから、ちょっと残念なルックスの、まじめだけが取り柄のような男性の見合い写真を見せられるということぐらいです。
元カノの登場で三角関係に悩むとか、思いがけず男友だちとしてしか見ていなかった人物から告白されるなどの、恋愛にありがちなトラブルも、43年間生きて来て、ただの一度もありませんでした、、、

結局、何が言いたいのかというと、恋愛は宗教みたいなものではないか、ということです。
信仰心の篤い人は、信じている神なり仏なりに絶対的な主義を貫くであろうし、いかなる迫害を受けようとも、それに打ち克とうとする精神性は、崇高でさえあります。
万が一、神や仏に疑問が生じるようなことが起こったとしても、それは信仰心の足りない自分のせいであるとして、一切の責任を自分のものとします。

そういう姿勢を恋愛に置き換えた時、あらゆる世間の情報を遮断し、思考をストップさせた状況など、ちょっと危ういところが酷似しているように思えるのです。

前置きが長くなりましたが、曽野綾子の『砂糖菓子の壊れるとき』を読みました。
最近、曽野綾子の初期の作品にハマっています。
曽野綾子と言えば保守派の論客として聞こえ、私には敷居の高い作品ばかりで、これまであまり親しむきっかけがありませんでした。
ところがたまたま、ある中古本の巻末にあった案内文(紹介文)を読んだら、「謎の死を遂げた女優マリリン・モンローから材を取った作品」とあり、がぜん興味が湧いて、『砂糖菓子が壊れるとき』を購入しました。

いや、これはスゴイですよ、はい。
これを読んで、ますます恋愛を謳歌する人もいるでしょうが、私はむしろ、持論でもある「恋愛は幻想に過ぎない」と思うに至りました。
ストーリーはこうです。

売れない大部屋女優の千坂京子は、映画監督の栗原と交際していたが、栗原は京子と距離を置くようになった。
愛に飢えている京子は、深夜にもかかわらず電話をかけてしまう。
しかし、栗原本人とは連絡がつかず、打ちひしがれる。
京子は、精神病院に入院中の母親のために入院費を稼がなくてはならなかった。
わずか1万5千円を稼ぐために、京子はヌードモデルのアルバイトをやった。
郵便局から現金書留で送金した後、京子は帰って一人部屋の隅で泣いた。
すると、芸能プロダクションである工藤プロの社長から手紙が届く。
京子に好感を持つ工藤の采配により、京子は著名な石黒監督の作品に出演することが決まった。
工藤は持病を抱えており、しかも京子とはかなり年も離れていたが、結婚しようと言う。
京子の胸にはまだ栗原という存在がちらついたので、即答はできなかった。
また、工藤に対しては尊敬してはいるものの本当に愛しているかどうかは分からないと、素直に答えた。
結局、京子は工藤との入籍を拒んだ。
だが工藤は、自分が亡き後、自分の財産を全て京子に与えてやりたいと思っていた。
京子は、「お金を私に与えるために結婚するなんていやだ!」とつっぱねる。
その後、工藤は最後の発作を起こし、亡くなる。

京子はこの後、知的なものへのあこがれから大学の聴講生となり、そこで知り合った教授と深い関係になります。
さらには、新聞記者の奥村や、野球選手の土岐とは結婚するまでに至ります。
その後、土岐とは離婚し、今度は脚本家の五来と再婚するのです。

京子は常に、自分に自信を持てないでいます。
男たちが、京子の恵まれた肉体としなやかな美しさに惹かれて近寄って来ることは知っていたのですが、いつも漠然とした不安を抱え、不眠症に悩んでいます。
恋愛というものが、この京子のように、孤独と不安を埋め合わせるものだとしたら、なんと切なく、儚いものなのでしょうか。

睡眠薬の常用者であったマリリン・モンローの死は、世界中の男性が哀しみに暮れる中、「女たちは彼女の死を黙殺した」とのこと。
マリリンは世界中の女性たちから嫌われても、たった一人の男性から愛されているのならば幸せだと思ったかもしれません。
しかしながら結果として、男たちは彼女から離れていきました。
その理由は、この作品を読むとしだいに明らかになります。

恋愛の本質って、一体何だろう?と疑問が生じたら、この『砂糖菓子が壊れるとき』を読めば、何となくその輪郭みたいなものが掴めるかもしれません。
興味のある方は、ブックオフなどの中古本取扱店にてご購入下さい。おすすめです。

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2014年6月28日 (土)

木枯しの庭

職場の同僚らは30~50代で独身者2人をのぞけば、皆、既婚者です。
そのうちの女性に限ると、皆、子どもさんがいて、他愛ない会話の中において、いかに“息子命”であるかがほのぼのと伝わって来ます。
息子さんが野球部やサッカー部に入っていると帰りが遅くなるとかで、そのお迎えに忙しくされている方々や、塾の送り迎え、さらには息子さんの出場する試合の応援やらで、土日があってないような多忙な毎日を過ごされているようです。
それはごく一般的な中高生の子を持つ親の姿なのだと思います。
ちょっとイレギュラーなパターンで、スゴイと思ったのは、2人の子どもさんの親であるAさんのこと。(上は娘さんで、下が高3の息子さんです。)

「息子がカノジョをつれて来たのよ」
「わ、すごいじゃないですか」
「居間で2人してテレビを見るのはかまわないんだけど、カノジョの手が息子の太ももに触ってるのよ」
「なかなか今どきの女の子は積極的ですね」
「でもね、2人っきりの世界じゃないの。そこの空間には私もいたし、主人もいたのよ。ちょっと常識がないっていうか、、、」
「きっとベタベタしたい年ごろなんですよ」
「でね、私それが許せなくて、2人を別れさせたの」
「えーっ?!」

さすがに私もその結末には驚きました。
しかし、Aさんとしてみれば、最初は清らかな男女交際でも、女子の方が何か誘いをかけて来て、理性の効かない思春期の息子が一線を越えてしまったらと思ったとたん、夜も眠れず心を鬼にして「別れなさい」と言ったとな。

「ヘンな女の子に捕まって、一時の迷いで妊娠でもさせてごらんなさい。息子の将来はないもの。息子を命がけで守るのが親の使命なのよ」

このぐらいの母親としての愛情がどの女性にも備わっていれば、世の中に幼児虐待とか育児放棄なんかなくなるでしょうに。
なかなか上手くはいかないものです。

そんな中、曽野綾子の『木枯しの庭』を読みました。
この小説が文庫化されたのは昭和56年なので、ざっと数えても33年も前に、すでに息子を溺愛する母親の歪んだ愛情というものがクローズアップされていたのでしょうか?
曽野綾子は、聖心女子大学文学部英文科卒で、敬虔なカトリック教徒でもあります。
代表作に『神の汚れた手』や『二十一歳の父』などがあり、現在に至るまで女流作家として第一線を行く人物なのです。

『木枯しの庭』は、息子をとられたくないあまり、次々と縁談にイチャモンをつける母と、その母の呪縛から解放されることを願いつつも、結局は親離れできずにいる息子との関係を描いた作品です。
あらすじは次のとおり。

43歳で大学の教授として勤務する公文剣一郎は、65歳になる母親と二人暮らし。
これまで浮いた話はいくつかあったが、母の存在が災いし、結婚には至らずに終わった。
ある時、再び剣一郎に見合いの話が持ち上がった。
相手はスポーツ関係の仕事をする、業界では有名な新海協子だった。
剣一郎の母は、いつだって剣一郎の見合いに反対するわけではなく、「結構なお話じゃないの」と、言葉の上では前向きだが、実際にはどう考えているか分かったものではない。
剣一郎は様々な苦悩を抱えながらも、協子を愛し、結婚についてあれこれ考えを巡らせてはみるものの、やはり上手くいかなかった。
剣一郎が日々の生活に忙殺されていく中、協子は突然、他の男性と結婚してしまうのだった。

主人公の剣一郎は、一見、親孝行で何もかもが行き届いており、申し分ない男性です。
女性に対しても爽やかで優しく、何の問題もなさそうに見えるのです。
ところがここに、母一人子一人という家庭環境が重くのしかかって来ます。
もっと突っ込んで言ってしまうと、母親というどうしようもないモンスター(?)がネックとなっていることが分かります。
息子に依存するにもほどがあると、読み進めていくうちに嫌悪感が湧いて来るほどです。
だからと言って母一人の責任かと言えば、すでに43歳にもなった大人の男性が自分の意思と勇気を振り絞って、母親から離れることをしないというのも気になります。

また、これは剣一郎の性格に限ったことではなく、世間一般の人々が抱く感情にも共通のものがあるかと思いますが、他人の不幸を密かに喜び、それを自分の置かれた境遇に照らし合わせることで、「あの人の不幸に比べれば、まだ自分の方がマシだ」と安心する人間の厭らしさ。
この醜さとかエゴは、ほとんどサスペンスに近い心理的恐怖を味わいます。
どんなカテゴリに区分したら良いものか、迷ってしまうのですが、あえて言うならヒューマンドラマになるでしょうか。

これは男性の方々にはぜひとも一読をおすすめしたいです。
単なるマザコンでは済まされない、日本の将来を垣間見てしまうような内容となっています。
もちろん、母としての立場から息子さんを持つ女性の方々にもぜひぜひ。
読後は、行き場のない孤独感で押し潰されそうになりますよ!

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