2014年11月 1日 (土)

悔いの色

ドロドロとした男と女の情愛をめぐるドラマは、テレビや小説の中のお話ではないのです。
“事実は小説よりも奇なり”とは言ったもので、一昔前の金妻ドラマなんか比較にもなり得ない出来事が起こり得るものなのです。

私はもともと著名人のゴシップ記事やスキャンダラスな話題が大好きで、ヘタな恋愛小説を読むよりも私小説の方に触手が動く方です。
最近読了したのは、丹羽文雄の短篇集なのですが、いやこれがまたものすごくリアルに強烈なのです。
著者自身がはっきりと言っているのですが、

「私の小説は、どんなものでも必ず何かしらモデルがある。私にはよくよく夢物語は書けない。私は事実を重視する」

とのことで、それはもう臨場感あふれる具体的な小説に完成されています。
中でも『悔いの色』には驚愕しました!
この短編の冒頭は、著者の姪がすぐ近所のアパートに一人で住んでいて、そこに深夜、男が訪ねて来るのを偶然にも目撃してしまうところから回想が始まります。
回想の内容は次のとおり。

「私」がまだ大学生のころ、実家(浄土真宗の寺院)で休暇を過ごしていた。
義母は、住職である父にとっての後妻であり、「私」にとっては継母である。
父は夜になると、檀家の一人暮らしの未亡人にお茶を教えていた。おっとりした美人である。
父が未亡人にお茶を教えているのは知っていたが、「私」はそのことに何の関心もなかった。
その時、ふと見た義母の青ざめた表情は見るに忍びなかった。未亡人の来る晩だった。
ある時、「私」は勉強室を出て、父の居間(灯のともらない御内仏の間)のそばを通りかかると、畳の上で衣擦れの音を聞いた。
衣擦れはしだいに烈しくなり、人間のうめき声のようなものが聞こえて来た。
衣擦れの音が止むと、父の声がした。
相手は、未亡人だった。
「私」は前後の事情を推測した。

「私」というのは著者である丹羽文雄ですが、この時、父親と未亡人が同衾の際中、義母も同じ屋根の下にいたと言うのだから強烈です。
本堂では法要の後の食事会が催されていて、人の出入りもあります。
そういう中での情事だからたらまない。
しかも父親は、仮にも僧侶の身なのですから!
むろん、義母は夫のあさましい行為に気付いており、ふつふつと煮えたぎる怒りと嫉妬に狂いそうだったに違いありません。

結局、著者は父のおぞましい行為に羞恥と狼狽を覚えながらも、その事実を小説として発表し、同時に実家の寺から飛び出してしまいます。
人間のやることに完璧なことなどないと分かっていながらも、その「業」とか「煩悩」を真正面から見据えた著者の、冷静で客観的な考察には驚かされてしまいます。

この短編には秘密の宝庫のように人間の恥部が凝縮されており、痛みさえ伴うのです。
この大人の文学は、若い人にはちょっと受け入れにくいと思いますが、私と同世代か、あるいはそれ以上の方々には何とも言えない余韻を残すものではないでしょうか。
講談社文芸文庫シリーズに入っていますが、文庫本のわりに価格が高めなので、私は図書館から借りました。
でも今、この一冊を購入したい気持ちにとり憑かれているのです、、、

『鮎/母の日/妻』丹羽文雄短篇集  丹羽文雄・著

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2014年7月19日 (土)

伸子

ずいぶん古い本を読みました。
あとがきを読んだら、「1924年から1926年の間に書かれた」とあったので、すでに1世紀近く昔の作品です。
それなのにどういうわけか、内容に古さを感じないのです。
むしろ、ほとばしる瑞々しい女性感覚に圧倒されてしまうのです。

私の少ない友人の中の既婚者の一人は、専業主婦が夢だと言っています。
きっと、三食昼寝付きののんびりした主婦業を思い描いているのかもしれません。
『伸子』における佐々伸子は全く逆で、息苦しい家制度と、家庭生活の安定という常識への疑いと苦悩を抱き、自立した人生を歩みたいと渇望するのです。
既婚者の友人らはみんな共働きで、それが当たり前のようなスタイルになっています。
ご主人の給料だけではなかなか生活が立ち行かないというのが現実のようで、何か特定の思想や、人生の意味や意義を追求の上でのことではなさそうです。

伸子の場合、「日本の社会通念が枠づけている」結婚、家庭生活のしがらみから解放され、一人間として成長してゆきたいという激しい欲求が感じられます。
それが専業主婦からの解放を叫ぶものと決めつけてしまうのは早計ですが、ものすごく簡単に言ってしまうと、そういう枠組みからの自由を求めたものであるようです。

あらすじは次のとおり。

中流家庭に育った佐々伸子は、父とともに渡米し、様々な経験を重ねていた。
ある日、伸子はひどい寒気に襲われ、発熱した。
どうやら流行性感冒のようだった。
そんな伸子を熱心に見舞い、看病したのは、佃一郎というC大学で比較言語学を専攻し、研究している男だった。
これが縁で二人は急接近する。
しかし、アメリカの友人知人らは、伸子と佃はつり合わないと、それとなく伸子に意見した。
だが伸子は「自分が好き、だから好き。それでいいわ」と、つっぱねるのだった。
その後、伸子は自ら佃に、「結婚するならあなたとでなければいや」と、プロポーズする。
一方、日本から伸子の母が産後のひだちが悪く、危篤との手紙が届く。
伸子は、とりもなおさず帰国し、母を見舞いたいと願う。
だが伴侶である佃は、C大学を今、急に去ることは不可能な立場にあり、一緒に帰国することはできなかった。
帰国した伸子を待ち受けていたのは、思いのほか元気な母と、佃との結婚に大反対の両親だった。
伸子の周囲にある通常の恋愛とは違い、佃との恋愛は、独特の暗さと切なさを持ち、一筋縄ではいかない悲しみを伴うものとなった。

前半は、自由恋愛の末の結婚を勝ち取った、当時としては前衛的な女性のスタイルに見受けられます。
ところが作品の半ばぐらいから、佃という男も、所詮は女性の勝手気ままな振る舞いは認めない、単なる嫉妬深い陰湿な男として描かれており、読者は暗澹たる気持ちにさせられてしまいます。
結局、この『伸子』においては、何が一番正しい道なのかという結論は出ていません。
一見、新しい道を切り開いた伸子は、時代の最先端を行く女性にも見受けられますが、蓋を開けてみたら、何のことはない、失敗と後悔の連続です。

ある程度の経済力があり、知性と教養に恵まれた女性が結婚する時、やはりまだまだ両立という道は、難しそうです。
一方、ごく一般的な女性が人並みの結婚をする時、ご主人を経済的にサポートしつつ共働きというスタイルを取って生活していくぶんには、充分過ぎるほどバランスの取れた家庭を築き上げることができそうです。

『伸子』は、すでに1世紀近く昔の作品でありながら、現代を生きる女性に本当の愛情、本当の労働、本当の自立とは何かを考えさせてくれる、素晴らしいテキストだと思います。
活字に対し、少々中毒気味の方々におすすめしたい作品です。

※『伸子』宮本百合子・著

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2014年7月 2日 (水)

日本ノ霊異ナ話

40歳を過ぎたころから、いろんな局面で「ああ、もっと勉強しておけば良かったなー」と思うことが多々あります。
今からでも遅くはないと、意気込みだけはあるのですが、さて何から勉強して良いものやら分かりません。
とても漠然としていて、具体性がないのです。
とはいえ、学生時代から読書は好きだったので、それだけはこの年齢になっても続けるようにしています。
特に気に入った本などは、手帳に感想などを書き留めたりして、なるべく読後の素直な気持ちを大切にするようにはしています。

最近つくづく思うのは、日本の古典文学をもっと身近なものとして味わいたいということです。
とにかく、古文なんて学生時代に授業でちょこっとやったぐらいでは、とうてい読解できるものではありません。
旧仮名遣いも、現代語に慣れてしまっているため、読みづらくてかないません。
有難いことに、そういう人向けのマンガも多数出版されていて、それぞれに味わいがあって読み易いと思います。
ただ欲を言ってしまえば、マンガだとイマジネーションの膨らみに欠けるような気がして、できれば平易な現代語の古典に出合いたいなどと思ってしまうわけです。

そんな中、伊藤比呂美の『日本ノ霊異ナ話』に出合いました。
これは、日本最古の仏教説話である『日本霊異記』をモチーフにしたものですが、これがとんでもなくリズミカルでモダンで、そして何よりエロティックな作品に仕上げられているのです。
伊藤比呂美は、青山学院大学文学部卒の詩人です。
けれどエッセイや小説なども手掛ける作家でもあります。
代表作として『ラニーニャ』や『とげ抜き新巣鴨地蔵縁起』などがあります。
普通なら、よっぽどの好奇心や向学心がなければ、仏教説話には手を出したりしませんが、『日本ノ霊異ナ話』は、いや、これがまたスゴイのです!

人は死ぬ。死などそこいら中にいくらでもころがっている。いつでもぶちあたる。だからべつにたいしておどろくことはないのだ。

うん、このあたりは分かり易い仏教説話になっています。

あたしは涙を流したまま、蛇を思いました。くぼに蛇を入れることを思いました。ずぶりという激しさ。(中略)あたしはかすかに股をひらいてみました。そこへずぶりと来たのです。思いうかべただけで、あたしは歓喜にがくがくとふるえました。

な、なんという官能的な蛇との情事?!
これが仏教説話なのか?!
ちょっと驚いてしまう描写があちこちに露出しますが、それでいてやっぱり最後は教訓的に結ばれているのです。しかもカッコ良く。

古典というおそろしく堅苦しい文学に、現代の新しい風を吹き込むと、こんなふうに生まれ変わるのかと思う逸作です。
グロテスクな表現もあるため、そういうのが苦手な方には伊藤比呂美の世界観は遠いものに感じるかもしれません。
けれど、男であろうが女であろうが、生あるものはやがて老いて朽ち果てていくことをあからさまに表現されているのは、今の私には有り難く思いました。
キレイゴトを並べた、生き方の指南書的なものに食傷気味の方々に、おすすめの一冊なのです。

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2014年6月 2日 (月)

眉山

私は人と話をしていて、よくトンチンカンな受け答えをしてしまう時があります。
今ここで例えをあげたいのですが、すぐには思いつきません。
けれど、とにかく相手の真意を汲み取っているようで、実は論点がズレていたりすることがあるのです。
なぜそれに気づいたかと言うと、神経質な友人がその間違いを時々指摘してくれるからです。

「違う、違う。そういうことが言いたいんじゃないって」

こういうことは、気がおけない友だちだからこそズバリ言い当ててくれるのでしょう。
私ぐらいの度が過ぎたトンチンカンは、ヘタをすれば黙殺されてしまう場合があるので、人と話すにも慎重になるに越したことはありません。

そんな中、太宰治の未完の絶筆である『グッドバイ』を再読しました。
新潮文庫から出ているものですが、『グッドバイ』以外にもいくつかの短編や戯曲などが収められています。
中でも私のお気に入りなのは『眉山』です。
この短い小説に登場するトシちゃん(通称:眉山)が、これまた並外れたKYな女中さんなのです。
この眉山の存在が、私にはたまらなく愉快に感じたのですが、作中の「僕」は、その無知と図々しさと騒がしさに常に苛立っているのです。

そもそも何でトシちゃんが“眉山”というあだ名で呼ばれているのか?
それは彼女が、背が低くて色黒で、いわゆるブスに属する容姿なのですが、眉だけはほっそりした三ヶ月型で美しく、それゆえに“眉山”というあだ名がつけられたのです。

とても短い小説なので、あらすじを言ってしまうとほとんどネタバレになってしまう恐れがあるため、ここには記述しませんが、さんざん眉山のことをバカにしていた「僕」が、最後は手の平を返したように地団太を踏むのです。

行きつけの飲食店で働く女中さん(眉山)と、「僕」をはじめとする小説家や画家、音楽家など客たちとのやりとり。
眉山がいなくなって初めて気づくその存在感。
このなんとも言えない切なさは、やっぱり太宰のプロ技です。
恋愛小説でもないのに、読後の喪失感は、まるで大切な人を失った時のような鈍い心の痛みを感じます。

太宰治には『人間失格』をはじめ、『走れメロス』や『晩年』『斜陽』など、いくつもの有名作品があります。
しかしながら、本当に心を動かされ、共鳴できる作品というものは、この『眉山』のように短編集の中にひっそりと息をしているものが本命なのではという気もします。

仕事の合間、休憩中にちょこっと読めるという意味で、文庫の短編小説はバッグにしのばせておくのにちょうどいいアイテムなのです。
男女問わず、こちらの記事を読んでくれた皆さん、太宰治の『眉山』、ぜひぜひ読んでみて下さいね!ヽ(´▽`)/

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2010年12月 1日 (水)

死の棘。

師走に至って何もこんな小説を読まなくてもいいじゃないの、と友人から注意を受けるであろうことを承知の上で、紹介したいのです。

『死の棘(とげ)』を。

ちまたで持てはやされるのは、明るく陽気で、ちょっぴりせつない“恋話”的な物語だと思います。もちろん、私もそういう小説は十代のころさんざん読んで来ました。
とにかく読後はハッピーな気分になりたい、その一心で読み耽っていた記憶があります。
今だって惚れたはれたの世界を堪能するのは、言わずもがなです。

口幅ったくて恐縮ですが、39歳になってしまった私も、それなりの経験を積んで来ました。
両親の死、自分自身の離婚、我が家のお隣の火事によるもらい火など・・・もうとにかくいろいろ続けざまに重なったので、自分の精神状態をコントロールすることに必死でした。
毎日が孤独と絶望の闘いで、それなのにやっぱり勇気がなくて死ぬことも出来なかったのです。
そういう辛くしんどい日々も、歳月とともに薄れていきます。
人間というのは、本当に都合の良い生きものなんですね(笑)

さて、そんな中、私はどん底の気分をまたもや味わうことになりかねない小説を読んでしまいました。
それは、島尾敏雄の『死の棘』です。
簡単に言ってしまえば、この著者の私小説です。
しかし、芸能人などが得意とする暴露本や、身辺雑記などといっしょに考えてはいけません。正に、精魂込めた、生きるためにペンを取った小説であると言って過言ではないでしょう。
島尾氏の奥様が精神に異常をきたし、その原因が自分の度重なる放蕩、快楽にあったことで、良心の呵責に苛まれるのです。
狂気と正常を行きつ戻りつする妻と、二人の幼子を抱え、島尾氏は絶望の淵をさまよい、藁をもすがる思いでこの小説を書いたのです。

妻がすっかり発作のなかにはまりこんで、その終わることのない愛情の確認についての尋問がはじまっていた。(中略)あたしを愛していたか、愛していたのになぜほかの女と交渉を持ったか、今はどうか、将来はどうか、あたしの失ったきもちはまたもどってくるだろうか、もどってこなければ生ける屍だから死ぬほかに道はない、など。
『死の棘』より島尾敏雄・著

この小説は暗く、陰鬱で、正直、救いどころのない作品です。
しかし、今の自分が身の置き場のないほど苦しい立場にあればあるほど、この小説を読むことによって、「ああ、下には下があるもんなんだなぁ」と不思議な励みになるのです。
もっとハッキリ言ってしまうと、「まだ私の方がマシかも」という救いの手段にも成り得るのです。
もちろん、こういう小説が生理的にキライな方々もおられると思いますので、興味があって、しかも自分より不幸な人に出会いたい方に限ります。

実際にあったノンフィクションであり、人間記録でもあるので、向学のために読んでみたいと思う方、あまりの暗さに驚かないように。
孤独を寂しいことだと思わず、年末は今ある健全な精神に感謝をしつつ、ぼちぼちと過ごしていきましょうね!

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2009年2月 5日 (木)

ローラ。

それを懐古主義だとは思いたくないのですが、ここのところは我が家の書棚にある古い本を引っ張り出して読むことが日課になっています。
それらはすでに読了済みの、背表紙が日に焼けて白くなってしまった文庫本なのですが、再び読んでいるのです。
音楽などもそうですが、昔聴いたレコードを思い出してなんとなく聴いたりする・・・そう、そんな感覚です。
安心感なのか、慣れなのか、あるいはノスタルジーなのか。
自分でもよく分かりませんが、昔気に入って何度も聴いたフレーズは、今も同じ気持ちでその時の状況や思い出が、走馬灯のようにメロディーとともにくるくる回り出すのです。
本についても同様で、気に入った段落があるとそのページばかり読んでしまい、思わず自己陶酔の極みを味わっています。

今回は「ローラ」を読みました。
と言ってもおことわりしておきますが、西城秀樹のヒット曲、「傷だらけのローラ」のことではありません。(←誰もそんなこと想像してないか・・・)
トルーマン・カポーティの短編小説の一つです。
大まかに言うと、「わたし」がクリスマス・プレゼントにもらった醜いカラスの物語です。

「わたし」は鳥が大の苦手だったが、カラスをプレゼントしてくれた人への手前もあるし、また、羽根を切られて飛べなくなったカラスの面倒をみてやることが、「わたし」の責任みたいな形になってしまった。
そうは言ってもカラスは鳥。
恐怖でいっぱいの「わたし」は正直、大キライだった。
しかし、半年経って羽根も伸びて、すっかり元気になると、そのカラスに“ローラ”と名付けて、いつの間にか情のようなものすら感じ始めていた。
「わたし」は以前からペットとして犬を飼っていたが、ローラもその犬たちに交じって生活していた。
ローラは鳥なのだから、飛んでなんぼの動物であったが、どういうわけか歩く方を好み、犬といっしょに散歩し、ピョンピョン歩いた。
どうやらローラは、自分が鳥であることを知らず、犬だと思い込んでいるらしかった。

この小説を読んでいると、どことなく滑稽でほのぼのしていてハート・ウォーミングなラストを連想させてくれるのに、実は違いました。
舌の付け根に苦味を感じるような、何か寂しさで胸が締め付けられるようなラストなのです。
読者を上手い具合に裏切るというのも作家としてのお手並みなのかもしれません。
まんまと裏をかかれたような、だけどこれこそがカポーティ作品だとうならされる、実に洗練された小説でした。
以前読んだ時は、さほどにも感じられなかったせつなさも、時を経て、くり返し奏でるレコードの音色にも似て、厚みや深みを増して味わえるようになった気がするのです。

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2009年1月28日 (水)

エンジェル。

最近は専ら海外文学にハマっているさんとう花なのです。
これも親しみ易い翻訳のおかげです。
なにしろ少し前までは、もちろん訳者にもよるでしょうが、“~するやいなや”とか“なぜなら~であったからなのである~”的な訳し方で、とても最後まで読む気にはなれなかったのです。
ところが最近は翻訳者の質が高く、と言うより呑み込み易い文体に気が配られていて、きちんと消化されるので嬉しい限りです。

街の大きな書店で海外文学のコーナーを流していたら、「エンジェル」というタイトルの赤い装丁の書籍を見つけました。
著者はエリザベス・テイラーとありました。
「エリザベス・テイラー? あの女優さんの自叙伝か何かだろうか?」
と、私は思わず一冊だけあった「エンジェル」を手に取っていました。
さっそく訳者のあとがきを読むと、女優のエリザベス・テイラーとは同姓同名ですが、全くの別人でイギリスの女流作家であることがわかりました。
興味を引いたのは、過去にこの小説の翻訳は出ておらず、今回初めて白水社から出版されたとのこと。
これまで未邦訳だったのか・・・。
なんだかそういう付加価値に弱い私は、¥2400という大枚を叩き、購入するに至ったのであります。

さて、その内容ですが・・・。

おもしろいのなんのって!

実にユニーク、そして読み易い。
これまで村上春樹の翻訳を崇拝して来ましたが、「エンジェル」を翻訳した小谷野敦氏にスタンディング・オベイションをおくりたいほどです。
イギリスを舞台にしたエンジェルという奇抜でトンチンカンな女流作家の生涯を描いているのですが(もちろん、エンジェルという人物は架空です)、そのあまりの傲慢さ、非常識さに脱帽なのです。
このKYな人物が、しかし終盤にかけて、なんとなく愛すべき“オバちゃん”に変革していくのですが、そのあたりの表現がおそらく英語ならもっと味わい深く、読み手に伝わってくるのでしょうが、なかなかどうして小谷野敦氏によってすばらしく丁寧に、しかも自然な言い回しで翻訳されていました。
久しぶりに名作と出会えたような、充実感たっぷりの読後なのです。

ちなみにこの「エンジェル」は、2007年に若き巨匠フランソワ・オゾン監督によって映画化されているので、小説を読む気力に欠ける方はDVDなどで「エンジェル」をご堪能ください。
このトンチンカンな女性“エンジェル”は、私たちにある意味、勇気・・・のようなもの(?)与えてくれるのです。

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2009年1月14日 (水)

ティファニーで朝食を。

「空を見上げている方が、空の上で暮らすよりはずっといいのよ。空なんてただからっぽで、だだっ広いだけ。そこは雷鳴がとどろき、ものごとが消え失せていく場所なの」
(「ティファニーで朝食を」よりカポーティ・著)

友人からもしも「今、何を読んでるの?」と聞かれたら、「カポーティを読んでる」と答えるのが夢でした。週末の読書は、あったかい紅茶ととっておきのビスケットを食べながら、まったりモードでページをめくる・・・そんな優雅な光景にはカポーティの本が持って来いだなぁなどと勝手に夢想していました。
昨年の2月に待望の村上春樹の翻訳で「ティファニーで朝食を」が出版されて、発売当日に購入。
ですが実際に読み始めたのは一年後なので、しばらくは本棚の片隅に眠っていました。
今回私はその「ティファニーで朝食を」を読みました。
「ティファニーで朝食を」は、名女優オードリー・ヘップバーン主演による映画で、興行的にも大成功を収めました。
残念ながらそんな名画にもかかわらず、いまだ鑑賞する機会にめぐまれず、原作の翻訳を先に読むことになったわけです。

舞台はN.Y.イーストサイドの古いブラウンストーンの建物。
ホリー・ブライトリーは、古いたたずまいとは対照的に趣味の良いドレスを着て上品な宝飾品を身につけていた。
そしてホリーのアパートメントには彼女の魅力に引き寄せられて、代わる代わる男たちが訪ねて来るのだった。
そんなある日、ホリーは国際麻薬密輸組織の重要参考人として警察に連行されてしまう。

小説のヒロイン、ホリー・ゴライトリーという女性を単なる“娼婦”とか“コールガール”などと表現したくはありません。もっと自由で、掴みどころがなく、妖精のような存在として描かれているのですから。
この小説は、トルーマン・カポーティという作家が創り上げた、正に“小説らしい小説”でした。
作家志望の貧乏青年から見た高級娼婦ホリーの自由奔放な生き方、そして淡い恋心。
それが実にセンシティブに描かれているのです。
“四十歳以下でダイアモンドを身につけるのって野暮だし、四十過ぎたってけっこう危ないのよ。”
とホリーのセリフにもあるように、ティファニーのような有名宝石店の宝飾品は、それなりに人生経験を積んで社会的に認められた人たちが、自分へのご褒美として身につけるものなのかもしれません。

私はアクセサリーをあまり身につけることがなく、自分で買うこともありません。
唯一お気に入りなのは、昔プレゼントしてもらった一粒の本真珠のペンダントです。
決してブランド品ではありませんが、お出かけの時など必ず身につけます。
それが私にとって最高のアクセサリーです。
しかし、この小説を読んだ後、にわかに込み上げて来た感情・・・それは、ティファニーで朝食を食べることに何の違和感もない、例えばティファニーのオープンハートのペンダントをさりげなく身につけた様が自然体に見える・・・そんな精神的なセレブに成長したいものです。

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2007年6月17日 (日)

変身。

ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた。
(「変身」フランツ=カフカ著/池内紀・訳より)

この小説の冒頭はあまりにも有名で、例えるならそれは川端作品の「雪国」・・・『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。』・・・に通ずるものを感じます。
ここしばらくは日本の小説を狂ったように読んで何かを感じて、それから記憶の向こう側へと押しやっていたような有り様でした。
最近の売れセンを読んで、何とか周囲と打ち解けたい、あるいは話題のネタにしたいと、やみくもにページをめくっていたのですがとりあえずピタリとそういう「あがき」はやめることに。するとフツフツと湧き上がるのは「文学に触れたい」、ただその一念のみが胸の内を行ったり来たりしていました。
何度か読んでいるはずの「変身」を無性に読みたくなってしまいました。
フランツ・カフカの作品である「変身」は短篇で読み易く、でも内容には奥行きを感じるのです。カフカはドイツ語教育によるギムナージウムを卒業後、プラハ大学(法学専攻)へ進学します。
カフカに親近感を覚えるのは、彼は決して作家志望というスタイルに囚われず、サラリーマン勤めのかたわら、趣味で小説を書いていたということです。
全くの無名なのにそれなりに活字化されたのは、カフカに文学者の友人がいたことと、出版社を経営する友人にめぐまれたからなのだそうです。そういうきっかけがなければ当然発表の予定もなく、たとえ書き上げたとしても世に知られることはなかったと。

さて、あらすじです。

ある朝、目が覚めるとグレーゴルは一匹の醜い虫になっていた。
前日まで普通にセールスマンとして働いていたというのに、翌朝になると突然変身してしまったのである。
家族は両親と妹。一家を支えているのはグレーゴル。
一体この先どうしたらいいのだろう・・・?
醜い虫となってしまったグレーゴルに対し、家族はそれまで懸命に働き続けて来た彼の労など微塵も忘れ去り、邪険に扱う。
グレーゴルは怯えながら触角を伸ばして辺りをうかがい、「追いまわされ、逃げまどい、ほうほうのていで片隅に這いこみ、息を殺している」のだ。
そして最終的に家族からは見放され、ひからびて息を引き取ってしまう。
家族はそのことで、一同、安堵する。

せつないのは最後の件です。
それまで長男のあくせく働いて来てくれた金銭で両親も妹も生活できたというのにもかかわらず、いざ姿形を変え、役立たずとなってしまったグレーゴルにその存在価値を認めないのですから。亡くなったことでホッとするのですから。
このことは、現代社会を痛烈に皮肉っているとも受け取れます。あるいは「仕方のないこと」としてあきらめの境地にも似たものがあります。
これほど格調高い文学はなかなかお目にかかれるものではありません。
中島敦の「山月記」にも似ていますが、カフカのそれは、東洋的な陰気で狂信的な暗さというものがなく、それでいて内面的にはきわめて高貴なのです。

私はこの「変身」を読む度に、文学の真髄に触れることができるのです。

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2007年2月26日 (月)

赤目四十八瀧心中未遂。

これまで私は電子レンジというものを買わずに過して来ました。
でも生活していく様々な局面で不便さを感じることが多くなり、ついに昨日購入しました。
その電子レンジにはびっくりするようなたくさんの機能が付いていますが、私はまだそれらを使いこなすことも出来ず、専らあたためボタンを押すのみです。

友人のK美さんを震撼させた「赤目四十八瀧心中未遂」を遅ればせながら読みました。
K美さんはこの作品を意中の男性からすすめられ、一気に読了し、衝撃を受けたのでした。
社会の底辺を生きる人間たちの哀切極まりない絶望的な叫びを聞いたのだそうです。
そこにはパソコンも電子レンジも携帯電話もないのです。
ヘドロでギトギトした淀川の鼻をつく異臭と、毒々しいネオンの光り輝く繁華街。
臭いものには蓋をして来た私たちは「ギリギリのところで生きる」という意味すら理解出来ないのです。

作者の車谷長吉は兵庫県姫路市出身で慶応義塾大学文学部独文科を卒業しています。
「赤目四十八瀧心中未遂」で第119回直木賞を受賞しています。
さて、その内容の紹介です。

主人公の生島は東京で会社勤めをしていたが挫折。
尼ヶ崎に流れ着いて、牛、豚のモツ肉をさばくという仕事を始める。
そこは店の厨房とか作業場などではなく、汚い老朽木造アパートの二階で、四畳半一間の部屋だった。
隣りの部屋からは、昼間なのにあられもない男女の性交の声が筒抜けに聞こえてくる。女が生活のために見ず知らずの男を部屋に連れ込むのだ。
また、向かいの部屋からは烈しい苦痛に耐えるようなうめき声が聞こえた。
人間の皮膚に針を刺し、墨を入れて刺青を彫るのを生業としている男の作業場だった。
そんな社会の底辺で生きる人間の中に身を置いた生島は、近付いてはならない危険な女に欲情し、本能が疼いた。
女の背には、極彩色の鳳が翼を広げたような刺青が彫られていたのだ。

男女の営みを愛の儀式とでもいうのか、ロマンチックな行為として受け止めている世の女性たちはおそらく度肝を抜くことでしょう。
「闇の中で世界が破滅する」ような性交をしたことのある人がどれほどいるでしょうか?
そうすることで命を落とすかもしれない危険性を孕んでいる時、果たして人間はどんな絶望的で刹那的な性を営むのでしょうか?

車谷の目指す「人が人であることの悲しみみたいなものを書きたい」というテーマは、この作品に否応無しに凝縮されています。
ブランドの衣類、アクセサリー、ゴルフ、そして外車。
車谷はそれらを根本的に許せないのだと言います。「罪悪感の源」なのだと。
私はいつも何に対してあこがれを抱いていたのか?
きれいに着飾ること、ぜいたく品を身に着け他人に誇示すること、それが一体何なのか?
それは単なる自己満足の、謂わばマスターベーションにも等しいものではないのか?
この世の闇へ沈められた人の言葉を聞く耳を持ちたい。
己れが人間であることに絶望した言葉を発してみたい。
でも、とうていそれは不可能なことなのです。
私は怖いもの見たさの傍観者に過ぎないのですから。

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